17年8月:注目しているものを洗いざらいピックアップする
[musics]
OKAMOTO'S「NO MORE MUSIC」
なんか、めちゃくちゃかっこよくなっているらしい。
自分のなかで、正直OKAMOTO'Sはそこまでかっこよくないイメージだったのに。
ちょっと試聴したところ、どうやらめちゃくちゃかっこいいようだ。
Arcade Fire「Everything Now」
ダフトパンクのトーマがプロデューサーとして参加しているらしい。
Pan Daijing「Lack」
ベルリンのレーベル「PAN」からリリースされた。
最初だけちょこっと聴いて、すごくよかったのでフルで聴きたい。
Mount Kimbie「LOVE What Survives」
James Brakeが参加しているらしい。ひえええ。
[Books]
燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」
彼氏に勧められた。Twitterが面白いらしい。
Twitterで面白い人の書籍というものにあまり気乗りがしないが、読む。
武田砂鉄「コンプレックス文化論」
コンプレックスでカルチャーが出来上がってくっていうと、
どうしても、下北沢や高円寺のイメージになる。
もっというと、銀杏BOYSにいきつくのだが、
そこから先の話をどうするんだろう。
ただでさえ、今コンプレックス系が追いやられている気配があるのに。
戌井照人「ゼンマイ」
鉄割アルバトロスロケットの戌井先生の最新作。楽しみ。
それはそうと演劇が観たい。
[Movies]
「エル ELLE」
主演のイザベル・ユペールがすごくかっこいい。
好きなタイプのホラーサスペンスの匂いがする。
[Arts]
エマニュエル・ソーニエ展@銀座メゾンエルメス
エマニュエル先生、ごめん。
一部分だけ、ライアン・ガンダーの作品と混同してました。
ただ、あなたがすごくタイプのアーティストであることは確かなんです。
エクスパンデッド・シネマ再考@東京都写真美術館
映像メディアの歴史について。
飯村隆彦の「リリパット王国舞踏会」が超気になる。
17年8月:韓国のカルチャーシーンから目が離せなくて困る
アジアのカルチャーが気になって、夜も眠れない。
「EYESCREAM」の韓国カルチャー特集がめちゃくちゃ面白すぎて、
名前の上がるアーティストをちょっとずつ制覇している。
年末年始あたりからチラチラチェックしているバンド「hyukoh」をはじめ、
韓国アーティストがどうも隅におけない。
日本における「never young beach」「yogee new waves」や「suchmos」が席捲するシーンの、パラレルワールドを見ているようでならない。
良い意味でも悪い意味でも、アジアでカルチャーシーンが均一化している。
ただ「こういうの!こういうのを待ってた!」という、
絶妙にツボを押してくるアーティストはいる。
Silika Gelはそのなかでも特に良い!と感じたバンドだ。
[Official] 실리카겔 (Silica Gel) - 두개의 달 (Two Moons)
見た目はすごくいけてないし、色モノなバンドだと思っていた。
「Two Moons」という控えめに言って「激ダサ」なPVが導入だったせいもあるかもしれない。
ただ、このロックとシンセを融合させ、決めるところは決めつつ、随所で足を浮かせてくる感覚は、日本の音楽シーンでまだ遭遇したことがない。
備忘録17年5月:草間彌生はベートーヴェンの「運命」だった。
少し遡ることになる。
年始に、山田正亮の展覧会「endless 山田正亮の絵画」を観に行った。
ポールスミスみたいなストライプを無限に生み出す人、としか思っていなかった。
展示に行く前までは「なんだこの退屈な作家は」とまで感じていた。
ただ、実際年代ごとに観てみると、これがまた思った以上に面白い。
静かに、幾重にもなる色のレイヤーにより、緊張感のある均衡感が保たれていて、目がチカチカするのにものすごく安心する。
その安心感の根底にあるのは、彼の絵画のルーツにあるのかもしれない。
初期のありきたりな果物とワインボトルの写生を起点に、彼の作品は期を追うごとにフォルムが崩れていく。最初はボトルの線が荒くなり、渦を巻き始め、更にはボトルが分裂を始める。
最後には色の要素だけが、画面にべたりと横たわっている。まるで夕立ちのあとのように、何もかもが静まりかえるのだ。
まるで、静物のままだった頃の姿の方が騒々しかったかのように。
彼はこのスタイルに移ったのち、何百作もの「ストライプ」を残す。
色の組み合わせ・バリエーションは様々ではあるものの、実は彼は一貫して最初の「ボトルと果物」だけを描き続けていたように思える。彼が描き続けていたものは、最初から最後まで、りんごとボトルだったのかもしれない。
広い一室の壁に敷き詰められた抽象画の大群を前にし、色と線への執着にめまいがした展示だった。
そういえば、草間彌生もある本の編集に関わる前までは、
なんだか商業的な匂いがして苦手な作家だった。
ファッションブランドとのコラボや、アートナイトでの取り組み、24時間テレビ云々で、そういうイメージがついていた。なんだか経済に利用されている作家のような気がしてならなかった。
ただ、あるアートブックの編集をきっかけとして、彼女がめちゃくちゃ苦しみながら作品と対峙していることを知り、自分のなかで180度見方が変わることになる。
そして、今回の展示である。
彼女がいつも「強迫観念(オブセッション)」と戦いながら生きていることを、改めて実感した展示だった。
彼女の描く触手は、幼少期から悩まされている幻覚であり、また性や死を象徴するものだと言われている。彼女は奴らに悩まされながらも、正面から対峙し、ありとあらゆる可視化の手段を使いながら、なんとかして奴らの存在を形にしてきた。
時には恐怖を映像で表現し、時には死への誘惑を舟の形に託し、襲いかかる触手と戦いながら、奴らのバケの皮をはがそうとしてきたのだ。
最初から現在まで、彼女の描く「触手」は姿形が変わらない。だが、モノクロの時代に始まり、2010年以降はカラフルに、一層幸せな色使いへと変化していくのだ。
繰り返しの行為のなかで、本質を掴もうとする姿勢は、山田正亮の抽象画と共通しているように思う。
私の中では彼らの見える世界が「非日常」であるが、彼らが目にしているのは、彼ら自身にとっての「日常」にすぎない。
過酷な状況下で生活していれば、じきに身体が順応していくように
彼らは「日常」に伴う不安や恐怖を見つめ続けることで、より対象の核となる要素に近づこうとしている。
そして、だからこそ彼・彼女の作品の変遷は、ベートーヴェンの「運命」に酷似している。
テーマのフレーズは形を変え、私たちを苦しませるが、4楽章のフィナーレに近づくにつれ、より華やかに、浄化されていく。
繰り返すテーマに何度もぶつかり、苦しめば苦しむほど、カタルシスは大きいのだ。
終わりなき日常なんていうぼやけた仮想敵にどうぶつかっていこうか、
どう快感を得ようか、展示が終わってからここ最近、考えていることである。
備忘録2016
あっという間に過ぎてしまった。濃い1年間だった。
今年も今年で去年に引き続き、2016年に刺さったものを振り返る。
【スルメだったアルバム:3選】
#『Pushin'』STUTS
ヒップホップ再燃の年を代表する一枚。
何を食べてればこんなに渋いトラック作れるようになるのか。
Ft.K.Lee&呂布カルマの「Called Game」は本当にthug.
#『Fantome』宇多田ヒカル
2016年に女王が再君臨したことは、まさに大事件だった。
いわゆる「宇多田世代」がメジャーシーンで台頭するようになった今だからこそ
彼女の活動再開は「宇多田第二派」を後世に生み出すチャンスとなっている。
#『Flesh and Blood』yahyel
同世代の躍進。日本にルーツを敷かない、洗練された曲作りは他に例を見ない。
IDMを小難しくさせることなく、よりポップに昇華させた一枚。
日本勢が大活躍だった年、そしてヒップホップが白熱した1年だった。
しかも音楽だけにとどまらず、ファッションやアートなど
「ストリート」という文化そのものが一気に押し寄せてきたのが印象的だった。
ACEやDOTAMAが企業CMに登場するような世の中を誰が想像しただろうか。
【衝撃だったライブ・イベント:4選】
#DK SOUND @川崎のどっかの工場
『We are the universe』を聴くたびに思い出す。
川崎の工場で一夜を過ごす経験がもうできなくなるかと思うと切ない。
#NATURE DANGER GANG 3rd Anniversary @新宿ロフト
年始に活動休止の彼らであるが、実はライブを観たのが初めて。
女性器を象った入り口からメンバーが飛び出てきたときから、何もかもが狂っていた。。「美術手帖」に異例ながらも取り上げられていただけあって、カオスな空間だった。
こういうバンドは一個で良いけど、無くなっては欲しくない。
#カジャラ #1『大人たるもの』
本当に久々の「ラーメンズ」共演だった。相変わらずストーリーの構造が綺麗に数学的で、着地の方法もスタイリッシュである。
「大人になる」ということを後押ししてくれた舞台だった。
#Keiichiro Shibuya Playing Piano Plus @寺田倉庫
昼の部での音楽対音楽、そして夜の部での音楽対舞踊のバトルにコントラストがあって、渋谷さんの適応力に感動した。即興でスルスルドラマができあがっていく。
特に森山未來とのセッションは、お互いを信頼した上で各自が縦横無尽に暴れていたので観ていて爽快だった。
今年は例年より音楽ライブに足を運ぶことが多く、
特に海外アーティストの来日ライブがやけに多かった。
お腹が痛くなるライブもあれば、
アンコールのあともずっと待っていたいライブもあった。
ちなみに去年と同じペースを保とうとしたところ
泣く泣く直前で行けなくなるチケットが4〜5枚発生した。
社会人は黙って当日券が良いのだと実感した。
あと、演劇やダンスパフォーマンスをもっと観たい。
【痺れた展示:3選】
#「bacon ice cream」奥山由之
ウォルフガング・ティルマンスを彷彿とさせる見事な構成。
彼の空間把握能力と「自分が何を求められているか」を察知するブランディングスキルに感服した展示だった。
#「Body Loud!」Ryan Mcginley
ずっと待ち望んでいた、ライアンの展覧会。
おびただしい数のヌード写真に圧倒される。
自然と人間の対比構図が神聖で絵画のようだった。
ただ、まだ日本ではヌードが市民権を得られていないようで
息苦しさを感じる展示ではあった。
#GAME ON @日本科学未来館
「想像上の未来っぽさ」が反映された初期のゲームデザインから、
現在最先端ともいえるVRゲームまで、すべてを網羅した展示だった。
一貫してどの展示においても「子供がすぐ遊べる」設計になっていることに感服。
今年は絵画・彫刻の展示にあまり行かなかった。
代わりに面白い写真の展示が充実していたと思う。
それにしても、今年はインスタ映えする展示方法が目立ったような。
美術館の集客も「そこに訪れた」という痕跡を残せて、かつ拡散できるような仕様に
変わりつつあるのかもしれない。
【沁みた映画:3選】
#『ストレイト・アウタ・コンプトン』
去年の「ワイルド・スタイル」あたりから伏線は貼られていたのかもしれない。
この映画もブームの火つけ役を担っていた。ライブシーンが圧巻。
#『この世界の片隅に』
数々のタッチを駆使して、限られた予算の中で挑戦的な作画方法をとった渾身の一作。
戦争表現に締め付けられたが、主人公のポジティブな生き様を押し付けがましくなく受け入れられるのは、透明感ある描写があったからこそ。
#『シン・ゴジラ』
通称 「JR線爆弾」がなぜあそこまで泣けるのか、ということで
知人と議論が白熱した作品。
現実的にどこまでの作戦が可能なのか、そしてゴジラがメタファーとして示すものの意味を考える。
ああ〜喉から手が出るほど観たい〜
という映画に出会えなかった1年だった。勘が鈍ったのかもしれない。悔しい。
アップリンクの「見逃した映画特集」をジロジロ見ながら
見逃しが無いかのチェックをしている。
【新しい活動】
#1ヶ月の海外逃亡を果たす
3月の卒業旅行に、ポートランド・タイ・キューバの順で世界を巡ってきた。
おかげでゴキブリ並の環境適応力を蓄えた。
#富士山に登ってからFUJIROCKに行く
文字通りである。ただ、今年はちゃんとフジロックに集中したい。
#阿波踊りをする
飛び入りで大学連に参加した。踊る阿呆の気持ちを知りたかった。
やっていることは、クラブイベントとそこまで変わらないと感じた。
阿波踊りとDJは同じ!
#高校のOBオケに参加する
母校の管弦楽部が50周年を迎えたので、バイオリンパートで参加した。
100人規模のセッションの難しさと楽しさを実感した。
去年は去年で活動的だったといえば活動的だったが
今年は自分らしくないことに挑戦した1年だったと思う。
活動が筋肉っぽくなった。
【総括と2017年の目標】
フットワークが重くなったかと思いきや、
振り返ると案外色んな場所に足を運べていた。
今までの自分だと到底行かなかっただろう場所に行ったりもした。
その一方で「観なければいけないもの」は逃す機会が多かった。
逃した展示や映画は少なくないので、 2017年はより貪欲になりたい。
16年12月:海外アーティストのライブにただただ行けない
[CHAIN]
時が経つのは早いもので、もう年末である。
6月あたりまでは「会社に入ったら最後、人間じゃなくなってしまうのでは」と
よからぬ思い込みを抱えながら生きていた。
オフの日こそが「人間活動」であり、生きている意味だと感じていた。
ただ、案外仕事は楽しいし、余裕もある。
オンの日でも十分に人間を活動させている感覚はもっている。
とはいえ、カルチャーが無くては平日に息すらできない。
ずるずる鑑賞することは難しく、
思ったよりもいろんな場所へ足を運べていないし、
みすみす自分からチャンスを逃すこともある。
[MUSIC: The XX]
仕事にも慣れてきて、最近は早く帰ってのんびりする余裕も出てきた。
ただ何が原因かは知らないが、調子にのって平日ライブのチケットを取った時に限って、
仕事の用事が入ってきたり、思うようにいかなくなる呪いにかかっている。
The xx - On Hold (Official Video)
The XXが来日するというものだから、
嬉々として抽選に応募した。
打ち込みの使い方が上手くて、すごくクールなバンドである。
Jamie XXがエディットした「Sunset」もめちゃくちゃかっこいい。
LINE@が開設されたり、来年1月に新譜リリース予定だったりと、
これからの活動にワクワクしていた。だからチケットに当たった時はすごくハッピーな気分になった。
その日は別に仕事をサボっていたわけでもなく、ペースとしても遅くはなかった。
それなのに、急にやらなきゃいけないことを思い出してしまい、
気づいたらタクシーを使っても間に合わない時間になっていた。
重い仕事に気づいたのは幸いだったものの
なんで日中に気づかなかったのだと後悔してやまない。
[MUSIC: Alabama Shakes]
もちろん、上のような失敗は、自分がしっかりしてさえいれば避けられた。
ただ社会人というもの、突然避けられない用事が入ってくることもある。
Alabama Shakesの来日を10月からずっと待ち望んでいたのに、
ほんの一瞬でチャンスが吹き飛んでしまった。
Alabama Shakes - Don't Wanna Fight (Official Audio)
おじちゃんみたいなおばちゃんがボーカルを務めるバンドである。
アルバム『Sound&Color』がリリースされた時、
なんでこんなにウズウズするんだろうとばかりに感動してしまった。
生きる化石を発見したような衝撃だった。
今回の来日は、万博の「月の石」を素手で触れるチャンスのようなものだった。
予定もしっかり確保したし、チケットも用意できていた。
でも、世の中には不可抗力というものがある。
ある日会社のデスクでスケジュールを開いたら、
文字面からして避けられないような会社の用事がどっかと腰を据えていた。
もはや「Alabama ライブ」が押しのけられて、縦読みになっていた。
それくらいデカくて、太刀打ちできなかった。
さすがに泣きたくなって、PCを閉じ、タバコを吸いに行ったのは言うまでもない。
[MUSIC:hyukoh]
あとは、チャンスも見逃して痛い目を見ることもあった。
hyukoh(ヒョゴ)という韓国のバンドを知ったのは、
つい先月半ば頃の話だった。
[MV] hyukoh(혁오) _ Comes And Goes(와리가리)
the sign magazineのこの記事で知った。
「どっちがアジア1か云々」なんて日本と比較することはさておき、
アシッドジャズやソウルを踏襲したバンドが韓国にも存在していることが面白くて、
自然と彼らの過去のリリースを追っていた。
これまで韓国の音楽シーンに目を向けたことがなかったこともあって、すごく興味を持った。韓国インディーを漁るきっかけにもなったバンドである。
ただ、その記事を通して存在を知った1週間後、
誰かのInstagramから、直近で彼らが来日していたことを知る。
しかも予定が調整できる日に渋谷でライブ…。
全てはApple Musicからしか音楽を知ろうとしなかったことへの罰である。
早くストリーミングサービスからチケット購入ができるような世の中になればいいのに。
[CHAIN]
別に洋楽が嫌いなわけでもないのに、
海外アーティストにはとことんツイていない。
だいたいサマソニの前はお腹が痛くなったり急用が入ったりする。
何が悪いといえば自分のスケジュール調整問題なんだろうけれど、
あまりに洋楽の時は、トラップが多いように思う。
なんでかは知らないが、そういうもんなのだと思うようにした。
クレジットカードの明細をぼんやり眺めて、
このお金がアーティストの懐に入るのだということだけを救いとしつつ
「次誰かが来日する時は、当日券で行こう」と
社会人としての「人間活動」スキルを上げることを静かに誓う。
16年10月:宇多田ヒカル「Fantôme」を聴きながら「りんな」と人間活動について考える
[CHAIN]
人口知能といえば、
最近「りんな」が女優デビューを果たした。
面白いのが、輝かしき最初のデビューが「世にも奇妙な物語」だったことだ。
▼オンエア前のPRサイト。怖いのが苦手な人は注意。
普段はTwitterやLINEで幅広い層から愛されているAIではある。
でもホラーと相性が良いか悪いかと言われると、
…めちゃくちゃ良い。
それは受け取り手が「りんな」を人間と捉えればいいのか、
機会と捉えれば良いのか、判断がつかなくなる時があるからだ。
高度なことを実践できているとわかりつつも
「りんな」を「生者」と判断するには
あまりにまだ欠落が多く
「りんな」を「死者」と判断するには
あまりに活発である。
受け取り手は
彼女をどう扱って良いか分からなくなったそのときに
彼女に対し「不安」を抱くようになる。
自分たちの理解の範疇を超えた、オバケ的な何かのように。
そもそも実体のない世界だからなのか
「デジタル」というゼロイチで構築された空間には
どうも「都市伝説」的なものが多い。
ゲームの不気味なバグが「呪い」として騒がれたり、
「検索してはいけないワード」が氾濫したりする。
それらが人為的なものだと分かりつつも、
どこまでが「正」でどこまでが「誤」かの判断が難しい。
ネット空間に今度はそいつらっぽいのが出現し始めたのだ。
変な話だと思う。
人の力で認識できるはずのものが、
人の理解の範疇を超え始める。
そういうところに人は恐怖を感じるのかもしれない。
「りんな」の、いつ暴走し始めるかわからない、紙一重の応答機能も然り。
[Music]
逆に、人をちゃんと「人」と認識するための要素とはなんなのだろうか。
それはちょっとだけの欠陥があることだと、
宇多田ヒカルの新譜「Fantôme」を聴いて思った。
(あくまでがっつりした欠陥ではなく)。
「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」(アルバム「Fantôme」TV-SPOT)
「Heart Station」あたりの彼女は「完璧」だった。神様だった。
あまりに「完璧」だからこそ虚構の存在に近かった。
しかし音楽活動を休止するということになったとき、
彼女は実体のない「完全なる虚構」の存在となる。
地球のどっかにいるとはわかってたけど。
そのクッションがあったからだろうか。
彼女が活動を再開させたとき、
表現は悪いものの、一度存在を失った人が再び戻ってきたような
キリストの再誕のようなイメージさえ抱いた。
完璧なものを超えた、さらなる完璧に近づいた感じ。
「あー、勝てない奴がきた、無理無理降参」的な。
ただ、そんな「人あらざる者」の降臨にもかかわらず、
「Fantôme」はちゃんと血の通ったアルバムだなと認識できたのは
120%のものをあえて100%でやるかのような
良い力の抜き方を覚えたような印象があったからだと思う。
宇多田ヒカルの楽曲の魅力的なところは、
全体的にピリついているところだった。
ともすれば刺されそうな感じの緊張感がかっこよかったし「完璧」だった。
あと個人的ながら完全に紀里谷和明MVのイメージに先導されていた。
ただ、今回のアルバムはなんというか、すごく安心して聴ける。
ちゃんと人が歌ってる感じがする。かっこいいのは勿論だけど。
同じく若い頃はピリついていたディーバ・椎名林檎とのデュエットとか、
すごく幸せになる。女の友情って感じで。
何よりこのアルバムのキモになっているのが
KOHHとのコラボ「忘却」だと思う。
宇多田ヒカルのサイボーグっぽさを払拭して
一番「人間活動してきましたぁぁぁぁあッ」って匂いがする。
今までのヒッキー作品のなかで一番泥っぽくてきれいだと思った。
人間っぽい。
その直前の「イタリア人と結婚報道」も、人間ぽくてよかった。
むしろ、それ含めて一連の流れだと思う。
[CHAIN]
例えるならこのアルバムは、
まるで正体がちらっとばれたような感じ。種明かしに近い。
「なーんだ、やっぱりそうなんじゃん」と笑えるような。
そうやって、ちょっとぐらい汚かったり欠陥がある方が、
人間はどうも人間らしくなるらしい。
(例えば土日にブログの更新が滞ったりとか)。
でも「人間活動」は、公共の場で宣言でもしないと
どうも忘れがちになるもんだと、社会人になってつくづく思った。
私は大学時代の師匠から
「どんなに忙しくても、映画と本と美術を吸収しないと君の価値は死ぬ」
的なことを言われたことがある。
映画を見たり、どこかに出かけたり
意識的な「人間活動」のためにも、
やっぱり続けてみようかなと思った次第である。
ビジネスのことばかり考え始めると、
きっとファントムになってしまうだろうし。
16年6月:人工知能と「むじんくん」のCMについて考える
[CHAIN]
日本の片隅で「あ〜くっそエロくなりてえなあ〜オイ」と 無様に叫び続けていたちょうどその頃(※前回参照)、
秋葉原で「アダルトVRフェスタ」があった。
情報を見つけたのが開催日当日ということもあり
会場へは訪れることができなかった。
(でももっと早く知っていたら行ってた、一人で)。
ヒトの話によると予想以上に人が殺到したらしく、
会場へは一部の先頭集団しか入ることができなかったらしい。
エロ(もといエンタメ)が絡むと技術は急発達する。
分かりやすくて需要があるからだ。
難しいものを分かりやすいものへ落とし込むことで、
大勢のパンピーから「もっと純度の高いもの」が求められるようになる。
しかし、それが理解の範疇を超えてしまうと、
大衆は口をつぐみだし「時代が追いつかなかった」モノとして片付けようとする。
促進するのも制御するのも大衆の力である。
どないせえっちゅうねん、と呟きたくなる位、大衆は理不尽である。
要は「新しすぎるとドン引かれる」のだ。
[Movie]
人型ロボットの世界もその構造で発達している。
ASHIMOからpepperに至るまで、
それらは人々の頭の中で考える「ロボット」像の範囲内で進化しながら、
しかし、技術の進歩がこのまま進み、
特定の未来像に限りなく近い「未来」が訪れたら
技術に対し拒絶を示す人も少なからず存在するはずだ。
まさに映画「A.I.」の世界である。
先月公開された「エクス・マキナ」は、
現在の技術をもう少し進歩させれば手の届く範囲の「未来」の話を
「ワクワク」ではなく「ゾッとする」方の視点で表現している。
「想定の範囲内」なシナリオではある。既視感もあった。
しかし改めて「AI(人工知能)」で起こりうるホラーは
当然ながら10数年前の映画よりずっとシビアに、冷酷に表現されていた。
[Art]
「エクス・マキナ」作中に、人工知能のエヴァが絵を描くシーンがあった。
だが、監督の意図があるのか知らずか、
いかにも計算されたような絵だった(主人公が教えれば教えるほどエヴァが緻密な絵を描くあたり、まさにプログラミングの作業を彷彿とさせた)。
実際に、人工知能に絵を描かせることは既に可能ではあるし、
なんなら最近は小説も書かせることが可能らしい。
しかし見たままを描く「写実」や「パターンニング」のレベルから先へ進まない限り、
まだ芸術の分野は人間の特権たりうるようだ。
芸術とは、自身の意思や感情の制御を超えた世界に存在すると考えている。
一定のテーマや法則は繰り返し用いられているが、
そこから新しい発想を生み出そうともがく行為に、芸術の偉大性がある。
だから、もがいた末に特定の枠内から飛び出してきた結果として
音楽や演劇のアドリブは面白いのだと、
六本木クロッシング2016展に展示されていた山城大督の「トーキング・ライツ」を見て思った。
「六本木クロッシング2016展」紹介映像:山城大督Version
古い家具の動きに合わせ、録音されたセリフが流れる。
人間を介入させずに「演劇」を成立させようとする試みだ。
「感情の存在しないモノ」に感情移入ができるのかを問題提起している。
テーマパークのアトラクションのようなもので、
そこにアドリブは存在しないし、ハプニングも訪れない。
それでもこの作品を例外的にちょっと面白いと思えたのは、
ヒトの形には見えないモノへのアテレコによって感動を生み出そうとしていたこと、
子供の声の不完全さに人間臭さがあったからだと思う。
「不完全さ」ほど人間の身体を感じさせる要素は無いのだと感じた。
「六本木クロッシング2016展」紹介映像:西原 尚Version
一方で、人間が音楽を聴いた時の感情を表現した西原尚「ブリンブリン」も興味深かった。
黒い重りはいろんなところに引っかかりながらコンベアで運ばれ、
鑑賞者の予想をちょっと過ぎた辺りでストンと落ちる。
良い音楽を聴いたときの感動を、重りが散々焦らされた末に落ちた瞬間のカタルシスで表現している。
感動が懐へ落ちる装置は作れるし受容もできるが、
感動のタイミングまではさすがにコントロールできないらしい。
だからこそ、想定外に訪れた感動は大きいのだ。
[Music]
The Avalanchesの新譜「Wildflower」では、それこそ「鑑賞者のコントロールの範疇を超える」面白さを感じた。
エモーショナルなディスコサウンドをベースに、子供とかおっさんの声のサンプリングとかをすごくファニーな感じでちりばめているかと思えば
サウンドオブミュージックを突然ぶっこむ感じの暴れ方である。
めちゃくちゃ笑った。面白い。
AIに任せれば、ウン万曲のストックからランダムに旋律をピックアップして
新しいトラックを作ることも可能だとは思うが、
その組み合わせの面白さと、過去の曲をいかに愛着を持ってマッシュアップできるかは、個々の人間が為せる技だと思う。
あとはSuchmosのEP「MINT CONDITION」も気に入った。
「Essence」の時は「またなんか渋谷アーバンでオシャンティな感じのが出てきちゃったけどどうしようか(好きだけど)」と思っていた。
しかしシティポップがいよいよ飽和状態で「そろそろ人工知能に任せられるのでは」と思い始めていた頃に、
歪みを効かせたロックギターを取り入れスパイスを加えてくれたのは嬉しかった。
紋切り型から脱却しようとする「遊び」があるからこそ、 まだまだ人間の音楽を聴いていたいなと思ってしまう。 ファックザ量産型、なスタンスでいたい。
[CHAIN]
ただ、人間は理不尽である。
確かに未来とは「たどり着いたら無機質でなんか不気味なもの」だが、
そう考え、拒絶しつつも、やっぱり求めずにはいられない。
「未来」の需要は、ファッションで如実に顕れる。
90年代、ノストラダムスの大予言が世間を賑わせた頃、
日本でサイバー・ファッションが流行したことがあったらしい。
(引用元:ネオンカラーのファッションが日本の街を彩る | nippon.com)
ネオンカラーに厚底でミニスカ。
今見返すと、なんとも「近未来」のスタイルっぽいなと思ってしまう。
手塚治虫の描くサイボーグ女子がいかにも着てそうなのだ。
ビョークが雑誌「CUT」の表紙で履いてポンプフューリーが大流行したのも、
1995年5月である。「ハイテクスニーカー」と呼ばれ、エアーマックスなどと共にブレイクしたそうだ。これもまた、機械っぽいデザインである。
人々は来るはずのない(かもしれない)未来を
「コスチューム」という形で先取りしようとしていたのだろう。
また、その頃に「未来」がファッションとして頻繁に捉えられていたのは、
当時のCMからも見てとれる。
メタリックでタイトな服で、髪型もナチュラルからほど遠い感じ、
それが全時代共通の典型的な「未来」だ。
[Magazine]
そういった90年代の「未来」的変身願望をぼんやり思い出したのは、
今月の「GINZA」がきっかけである。
(GINZA 16年8月号より)
(GINZA 16年8月号より)
「 When she wants to change」シリーズが気になった。
80〜90年代サイバーファッションのリバイバル兆候は
去年〜一昨年辺りからあったものの、
今年はそれがよりダイレクトにきている気がする。
去年よりもメタリックなものや、タイトな宇宙服っぽいスタイルが流行りそうだ。
ノストラダムス大予言の時代同様、ぼんやりと未来が見えなくなってきたからか、
「いかにも未来っぽい未来」を人々が求めるようになった。
しかし、暗雲が立ち込み具合は90年代と比べ物にならないと思う。
だからこそ、せめてカルチャーの中だけでも“明るい未来に就職希望”していたい。
ウォウウォウ×2。