チェーン・スポーキング

カルチャーずるずるモノローグ

備忘録17年5月:草間彌生はベートーヴェンの「運命」だった。

少し遡ることになる。

 

年始に、山田正亮の展覧会「endless 山田正亮の絵画」を観に行った。

ポールスミスみたいなストライプを無限に生み出す人、としか思っていなかった。

展示に行く前までは「なんだこの退屈な作家は」とまで感じていた。

 

ただ、実際年代ごとに観てみると、これがまた思った以上に面白い。

静かに、幾重にもなる色のレイヤーにより、緊張感のある均衡感が保たれていて、目がチカチカするのにものすごく安心する。

その安心感の根底にあるのは、彼の絵画のルーツにあるのかもしれない。

 

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初期のありきたりな果物とワインボトルの写生を起点に、彼の作品は期を追うごとにフォルムが崩れていく。最初はボトルの線が荒くなり、渦を巻き始め、更にはボトルが分裂を始める。

最後には色の要素だけが、画面にべたりと横たわっている。まるで夕立ちのあとのように、何もかもが静まりかえるのだ。

まるで、静物のままだった頃の姿の方が騒々しかったかのように。

 

彼はこのスタイルに移ったのち、何百作もの「ストライプ」を残す。

色の組み合わせ・バリエーションは様々ではあるものの、実は彼は一貫して最初の「ボトルと果物」だけを描き続けていたように思える。彼が描き続けていたものは、最初から最後まで、りんごとボトルだったのかもしれない。

広い一室の壁に敷き詰められた抽象画の大群を前にし、色と線への執着にめまいがした展示だった。

 

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そういえば、草間彌生もある本の編集に関わる前までは、

なんだか商業的な匂いがして苦手な作家だった。

ファッションブランドとのコラボや、アートナイトでの取り組み、24時間テレビ云々で、そういうイメージがついていた。なんだか経済に利用されている作家のような気がしてならなかった。

ただ、あるアートブックの編集をきっかけとして、彼女がめちゃくちゃ苦しみながら作品と対峙していることを知り、自分のなかで180度見方が変わることになる。

 

そして、今回の展示である。 

彼女がいつも「強迫観念(オブセッション)」と戦いながら生きていることを、改めて実感した展示だった。

 

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彼女の描く触手は、幼少期から悩まされている幻覚であり、また性や死を象徴するものだと言われている。彼女は奴らに悩まされながらも、正面から対峙し、ありとあらゆる可視化の手段を使いながら、なんとかして奴らの存在を形にしてきた。

時には恐怖を映像で表現し、時には死への誘惑を舟の形に託し、襲いかかる触手と戦いながら、奴らのバケの皮をはがそうとしてきたのだ。

最初から現在まで、彼女の描く「触手」は姿形が変わらない。だが、モノクロの時代に始まり、2010年以降はカラフルに、一層幸せな色使いへと変化していくのだ。

 

 

繰り返しの行為のなかで、本質を掴もうとする姿勢は、山田正亮の抽象画と共通しているように思う。

 

私の中では彼らの見える世界が「非日常」であるが、彼らが目にしているのは、彼ら自身にとっての「日常」にすぎない。

過酷な状況下で生活していれば、じきに身体が順応していくように

彼らは「日常」に伴う不安や恐怖を見つめ続けることで、より対象の核となる要素に近づこうとしている。

 

そして、だからこそ彼・彼女の作品の変遷は、ベートーヴェンの「運命」に酷似している。 

 

 テーマのフレーズは形を変え、私たちを苦しませるが、4楽章のフィナーレに近づくにつれ、より華やかに、浄化されていく。

繰り返すテーマに何度もぶつかり、苦しめば苦しむほど、カタルシスは大きいのだ。

 

終わりなき日常なんていうぼやけた仮想敵にどうぶつかっていこうか、

どう快感を得ようか、展示が終わってからここ最近、考えていることである。