チェーン・スポーキング

カルチャーずるずるモノローグ

17年7月:マームとジプシー「BOAT」と映画「万引き家族」から、人を待たせる辛さを考える

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自分は待つことにあまり苦を感じたことが無くて、待ち合わせに相手が30分遅れようものなら、好き勝手にフラフラと散歩に出てしまう癖がある(そしてだいたい遅刻者よりも遅刻する)。

 

そして、待つことの苦しみを知らずに生きてきたせいか、遅刻する時ほど大掛かりな遅刻をすることが多い。

寝坊で遅刻をするのではなく、母親が淹れたお茶が美味しかったり、朝ごはんの味噌汁に感動したり、書店で手に取った本が面白かったりという理由で遅れるものだから、自分でもタチが悪いと思っている。

 

自分でも分かってはいる。

でも待ってくれる人がいると分かっているうちは、どうも悪いことに、愛されているなと感じてしまう。

 

 

[playing]

 

 

マームとジプシーの「BOAT」を観た。

 

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今まで観た演劇のなかでもピカイチに良い。

 

*******

 

舞台は漂着した移民が流れ着いた末に出来上がった街。

「余所者」は数ヶ月前、別の国からボートを使って逃げてきた。流れ着いたこの土地で、荷物を運ぶ仕事をしている。

「余所者」は元からいた街に住む奴らから、あまり良く思われていない。彼らは言う。「ここは俺たちの街だ、余所者にここの勝手が分かるか」と。しかし、彼らもルートを辿ると遥か昔は余所者だったわけで。彼らはそのことをすっかり昔に忘れてしまっている。

 

「余所者」は回想する。「僕のいた街では、ここと同じように煙突があった」。

なお「余所者」の帰りを異国で待つ人はいない。故郷はボートの襲来を受けて粉々にされてしまっている。

 

街の人々はこぼす。「街は誰のものだ?俺らのものだろうが」。

人々は「余所者」や、「余所者」のような移民たちを嫌悪する。

 

ある日空から多くのボートが押し寄せてくる。襲来するボートは街を破壊していく。人々がボートに乗って別の国へと逃げていく中、瞬時にして様々なドラマが動き出す。誰かを「待つ」ために街に残り続ける人、誰かを「待つ」ことをやめ、自ら命を絶つ人、また混乱に乗じて「待たれることのない」人に暴力を振るう人、等々。

 

*******

 

 幾度も繰り返される同じセリフが、姿、形、意味を変えていく過程が美しい。

シーンがフラッシュバックし、別のシーンと重なりながら、どんどん言葉に新しい意味が加えられ、伏線は回収されていく。

 

その中でも徐々にマクロに、あるいはミクロになっていくのは「待つ」という言葉だ。

劇中には、船に出て帰ってこない人を文字通り「待つ」人がいる。

誰かを待つということは、物理的な行為だけではなく、そここそを誰かの帰ってくる場(=帰属)にする行為なわけで。国籍や住居ではなく、「待つ」「待たれる」という行為が、その人の故郷を作り出しているのだと知る。

待っている人がいるということが、その人の「故郷」になるのだとしたら、「故郷」とは、いくつあってもいいものであるし、ふとすると「故郷」が無いこともありうる。

 


[movie]※ネタバレあり

 

そういえば「万引き家族」は「ルーツ」の無い人々の話ではないか。

 


映画「万引き家族」本予告編

 

歪ながらも、一瞬でも全員のピースが合わさって「家族」が形成された物語、ではある。

 

だがラストシーン、あっけなく家族の形が崩れ去り、跡形も無くなってしまったのは、誰が誰のことを「待つ」ことも、「待たれる」ことも無くなってしまったからなのだ。

 

もし誰かが誰かのことを待っていれば、そこに家族の続きはあったかもしれない。

でも、最後は誰も待たなかった。故郷は無くなり、人々は散った。

彼らもまた、別々のボートに乗り、バラバラの国へ降り立ったようなものだ。

 

[Chain]

 

よく遅刻をして人を待たせているときに思い出すのが、太宰治の言葉である。

 

太宰治檀一雄と熱海旅行に行った時「宿代を東京の菊池寛に借りてくる」と言い残しながら、檀を旅行先の宿に置いてけぼりにし、先に帰ったことがあるらしい。
しかも檀がキレながら帰ってきたとき、太宰治井伏鱒二と呑気に将棋を打っていたという。

 

カチキレている檀を前に、太宰はこう言ったらしい。

 

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」。

 

待たせる方も辛いと。

すごい言い訳である。今度使おうと思う。

 

 

でも「待たせる方が辛い」はなんとなくわかる気がする。

待つということは、少なからず相手に愛情がないとできない訳で、こんな人を待たせるような人に注いでくれる愛情なんて、自分の身に余りすぎると感じてしまうことがある。

 

待つ人たちは、強い。意思が強い。

待たせる人たちは、その意思の強さに負けそうになる。

逆に待つことも、待たれることもない人たちは、拠り所がないんじゃないか。

そう思った時に「万引き家族」で感じた「拠り所」の温かみが分かった気がした。

どんなに歪んでても、拠り所がある。仮初めのルーツが出来上がる。「待つ」「待たれる」関係は美しい。

 

とはいえ遅刻は良くないので、なんとかしようとは思う。

 

18年6月:「君の名前で僕を呼んで」をただのLGBT映画だと思っている奴、とりあえず観てこい

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四捨五入しても逃れられない「アラサー」になろうとしている15分前。

日付を越えてからがカウントダウンの始まりである。要は誕生日だ。26歳になる。

でもこの記事を公開する頃には、もう戻れない道を歩み始めているはずだ。ありがとう25歳。とても楽しかったよ。

 

本来であればエモーションのままに25歳の振り返りをするべきところではあるだろうが、

 

ぶっちゃけ今は自分の誕生日とか心底どうでもいい。

クッソどうでもいい。

 

君の名前で僕を呼んでについて語りたくてハゲそうなのだ。

 

[movie]

 

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君の名前で僕を呼んで : 作品情報 - 映画.com

 

映画館で初めて、上映中に「尊い…」と漏らしてしまった。

音楽良し、役者最高、カメラワークも素晴らしい。全てが美しかった。

あとは80年代後半特有のいなたいスタイリング。完全に自分のツボに入ってしまい、終始過呼吸の一段階手前みたいな状態。まさに雑誌「POPEYE(ポパイ)」に出てきそうな、ゆるいテイストである。特に「大きめのトレーナー×短パン×ライン入りソックス」というスケーターみたいな組み合わせが最高の極みで、1人でハゲそうになっていた。

 

いろんな要素が重なりに重なって、映画館を出る頃から今に至るまで、もはや「ハゲる」「尊い」「吐きそう」しか言えないBotと化している。尊い。尊すぎてハゲそう。

 

ただ、何よりもどストライクにツボを直撃したのはやっぱり(?)ラブシーンだった。

爽やか、かつ本気。真夏の部活帰りのJKが持つシーブリーズに劣らない清涼感だった(キモいなあ…)。

しかも観ているうちに「男×男」が一切関係なくなっていくから不思議である。

 

語弊が生じるかもしれないが

正直、従来私がイメージしてきた「LGBT映画」という括りの中では、この映画を語りたくないと強く感じた。

 

それは、LGBTを拒絶する人たちが一切出てこないからだ。この映画には「ゲイだから」という理由で彼らを軽蔑する視線が出てこない。性別によるハードルが、こと恋愛においてほとんど無いのだ。というか「ゲイ」でも無いかもしれない。たまたま好きになった人が同性だっただけ、程度のノリである。

 

今までLGBT映画を、真剣にかつ数多くは観ていないのでアレなのだが、

正直私のイメージする「LGBT映画」とは「性別による苦難と周囲の視線を乗り越えながらも、同性同士の恋愛における幸せを手にする」映画だった。「LGBTであること」がストーリーの中心軸にあるジャンル、というイメージである。

 

例えば過去に衝撃を受けた作品を挙げるとすれば「アデル ブルーは熱い色」。

 


アデル、ブルーは熱い色

 

「アデル」が周りの蔑視や主人公本人の葛藤、登場人物同士の気持ちのぶつかり合いによってエネルギーを消耗する映画だったのに対し、「君の名前で僕を呼んで」は言ってしまえばストレスフリーだった。

 

レインボー・パレードのいらない世界。だからこそ、この映画は革新的だ。

 

もはや同性愛が様々な社会的ハードルを乗り越えるものではなく、あくまで作品の「一要素」として取り上げられるフェーズに入っているのかもしれない。

10年代後半以降、より注目され、頻繁に公開されていくLGBTテーマの映画の中でも、「君の名前で僕を呼んで」はまさに「サマー・オブ・ラブ」なハイ・インパクトのある作品なんじゃないかと思っている(ひと夏の恋、なだけに)。

 

そう、これは「人×人」の恋愛映画だ。椎名林檎が言うところの「男にも女にもならない」を、ワンシーンごとに一歩一歩体現していた。だからこそ「君の名前で僕を呼んで」は私にとって、「17歳の感受性豊かな子供と居候の甘酸っぱい恋を描いた作品」という括りになっている。

 

という訳で、「LGBT映画がちょっと苦手」と思っている奴、とりあえず観てこい。

これは恋愛映画だ。観てて胸が苦しくなるほどの恋愛映画である。「ママレード・ボーイ」よりときめくかもしれないぞ。とりあえず、観てこい。

 

 

追記:エリオ役のティモシー・シャラメ、マジ天使。

 

 

18年5月:10cmのヒールにようやっと認められる

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もっぱらローヒールに頼りがちではあるものの、ちょっとだけ女になりたくなる気分があって、10cmのヒールを引っ張り出し、会社までの道を歩いてみた。

 

履き始めこそ、かかとが当たったり、つま先が妙に痺れたりして血が止まる感覚を受ける。社内ミーティングの時なんて、痺れに耐えきれずちょっと靴を脱いだり、伸ばしたりした。

 

ただ、それが帰路に着く頃には気づいたら何も感じなくなって、

ようやっとヒールに認められたような気分に心地よさを感じた。

 

思えば単純なもので、どれだけ足に傷をつけようとも「その靴に認められた」と思った瞬間に、自分が最高の女性になれたような自信が溢れ出てくる。

痛い思いを代償に、一つの地位を得たような気分になる。だからこそ、無性に履きたくなるし、足を痛めると分かっていても履く靴がある。

そういう靴のことを、敬意を持って「殺意のある靴」と呼んでいる。

 

人から聞いた話ではあるが、イタリアで靴を仕立てるとき、靴屋は自分のサイズに合った靴を提供してくれないという。むしろ美しい型の靴に、自分が合わせるのだと。

靴が自分に合わせるわけではない。自分が靴に歩み寄らなければいけないのだ。

 

だからこそ、「靴に自分が認められた」瞬間はたまらなく嬉しくて、転びそうになりながらも軽く小走りなんかして、地面とつま先が離れていく気持ち良さを噛みしめる時があるのだろう。

 

[music]

 

PREPの初来日ライブに行った。

 

Cheapest Flightを最初に聴いた時、背伸びして聴くものだと感じていた。

そりゃあ、わかりやすい音楽ではある。それでもどこか手の届かない次元にある音楽のような気がしてて、自分にとってこの曲を「自分ごと」化するにはまだ先の話だと思っていた。

 

ただ、手の届きそうなほど近い空間で、声のよく通るライブを目前にし、さらにはメンバーと代官山UNITで会話したうえで、やっとPREPが「自分のもの」として落とし込まれた気分になった。

 

ただ単純に歌が上手く、演奏が素晴らしいバンドではなくて、その場にいることでこちらからステージのあちら側に歩み寄ることができる、そんなショウを日本で、かつ初めての来日という記念すべき瞬間に立ち会えたことは本当に誇りに思う。

 

[music]

 

直近で行ったnils frahmのライブもその傾向があった。正直、音源として楽しむニルスは近寄り難い神聖なサウンドの印象があった。

それで踊れるかと言われたら、踊れる自信は毛頭なく、考えて、考えて、考え抜いてやと歩み寄れたかな、という感覚。

ただ、こちらからライブに足を運んでみて思うのは、敷居の高さに反し、敷居を勇気出して乗り越えるととんでもない快感が待ち受けているということだ。

 

ここまで骨が溶けそうになるライブは久々で、(人がどんどん倒れていく中でも)どんどん近くに寄って、どんどんその危険な火花を浴びてみたい気持ちになった。

 

レコーディングスタジオのような巨大な機材の中を歩き回るニルス、まさに職人が音楽を一つ一つ組み立て、より繊細なプロダクトを築き上げるようだった。

 

[play]

 

茶番主義!の「白い馬の上で踊る」は、一方で「歩み寄り」に任せてしまっているような感覚を受けた。

構成は素晴らしいし、表現は癖があるものの、画期的ではある。ただ、文脈として繋ぎ着れない演出を「あとは自分で解釈できるでしょ?」と投げてしまうことは、表現作品として難易度が高すぎる。

コンテンポラリーの解釈が難しいからこそ、それを雑多に扱うことはできないし、こっちも考えるなら頭をフル回転させて考える覚悟はできている。ただ、その観客の覚悟に委ね過ぎてはいけない。

イタリアの職人だって「人間の足の形」を理解していなければ、血を流しても美しい靴を作れないように。

美しい形を作る術が分かっていることは身にしみて理解したから、次は人の足の形に合わせる技を身につけてほしい。

 

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そこまでを、足に豆を作り、お酒に酔っ払いながら考えた。

きっとしばらくはハイヒールを履きながら、時に足を引きずり、時に絆創膏を貼りつつ、一歩一歩を踏みしめて歩く生活が続くようである。

 

この前奮発して買った竹内まりやの「Plastic Love」12インチを流しつつ、その曲がいずれ自分の味方になってくれることを信じながら、曲に歩み寄って、いずれ歌詞の真意がわかり、流すべき瞬間が来ることを待ち望んでいる、今日このころである。

 

 

18年2月:92年生まれ25歳の「リバーズ・エッジ」と「完全自殺マニュアル」

【Chain】

 

もっぱらクラブに出入りするようになった。

 

特に踊りが得意な訳でも、音楽の知識がある訳でもないが、

年明けあたりから急にハマり始め、主に渋谷近辺に立ち寄るようになった。

アナログなサウンドが性に合うので、ディスコなパーティに顔を出すことが多い。

 

フロアの環境が好きだ。

誰も自分のことを気にしない状況で、匿名者に成り下がりながら、誰にも見つからずに暗がりで踊るのがちょうどいい。

重低音に心臓の動きを全て委ねるのも、明け方の外気に触れて自分が溶けるような感覚に陥るのも、全てが心地よいのだ。

 

その、自分が無に溶け込んでいるという実感の中から、ふと「生きてるなあ」と感じることがある。

 身体中のあらゆる「自力」を棄て、身体を音楽に寄りかからせながら、

いてもいなくてもいい環境の中で、自分というものを実感する。

だからもっぱら渋谷に通う。

 

【Movie】

 

Base Ball Bearの「17歳」という曲の中に「生きている気がした気持ち」という歌詞がある。それをiPodで聴きながら「あー、今超生きてるわ」なんてバイオリンを担いで帰ったのが、自分の高校生時代である。

その時の「生きる実感」とクラブで踊る「生きる実感」はもうかけ離れている気もする。感じかたを徐々に変えていきながら、いよいよ生き長らえて社会人になった。

 

20数年も生きていると「超生きてるわ」なんて、普段あんまり思わないもんである。

ただ、ふとした拍子、……例えばクラブで空気に溶けたり、ジャクソン・ポロックのデカイ絵画を目の前にしたり、何か得体の知れないものを見てしまった時などに、それに近い実感を得ることはある。

 

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

  

リバーズ・エッジ」を初めて読んだときも、感想は「超生きてるわ」だった。

死体、自分より弱い者、自分より美しくないものを見下す誰かがいる。

そんな彼ら・彼女らを更に「神の目」で見つめる自分がいて、

目線を同調させたり、見上げたり、見下したりといろんな角度から迫っていく。

 

彼らが「見下す者」のワンオブゼムであるように、「リバーズ・エッジ」を読む自分もワンオブゼムであること、そして見下すことで「生きている実感」を得ていることに気づく作品だ。

 

そのワンオブゼムがどういった表情をしていて、どういったことに喜び、悲しんでいるかにフォーカスを当てたのが、映画版「リバーズ・エッジ」である。

 


映画『リバーズ・エッジ』、小沢健二が歌う主題歌「アルペジオ」入り予告編

 

岡崎京子の白く抜けたタッチからはやや遠くて、厚みが出てしまっていた。原作の方がもっとみんなおちゃらけていたし残酷だったな、と思う。平面のままでいるべきものが妙にぬめぬめとしたテクスチャで立体化しちゃったような感じである。

 

でも、二階堂ふみのインタビューシーンがリアルで忘れられない。

映画冒頭でグロテスクに焦げたぬいぐるみを持ち、空っぽの笑い方をする。

どんな時代の「最近の若者」よりも表情が空虚だった。

だからこそ、死体を見つめる顔を生き生きと感じる。役者の表情のコントラストが強い作品だった。

小沢健二の主題歌が底抜けに明るいサウンドなのも、時代の空虚を表していると考えると合点が行く。(もっとグランジっぽいBGMを想像していた)

 

【Book】

 

「リバーズエッジ」とだいたい同じ時期に出された本に「完全自殺マニュアル」という作品がある。

  

完全自殺マニュアル

完全自殺マニュアル

 

  

「いつでも死ねるような状況を作ることで、生きている実感を得る」。

そういったコンセプトのもと、首吊りや飛び降りの正しいやり方と失敗例をレクチャーする、トンデモナイ本である。

結構タメになる(?)もので、人間が死ぬということがどれだけ難しいかを知ることができる。

 

数年前にたまたま神保町の古本屋で実物を見かけたものだから、つい手に取ってしまったのだが、ちょっと中身を覗いたきり本棚の肥やしになっていた。

映画を観る前、何も考えずにパラパラと読み返していたところ、よりによって前の持ち主の痕跡がべったりと付いているのを見つけてしまい、ギョッとしてしまう。 

 

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元の持ち主は、なぜこのページにマーカーを引いたのか。

持ち主はどういう気持ちでこの本を買ったのか。果たしてこの本を「使った」のか。

終わらない、何もない平坦な戦場の中で、どうやって「生きている実感」を探そうか迷い、買ったのだろうか。

 

この本が、刊行された当時1990年代における、ーー少なくともこの本の前の持ち主にとってはーー「川沿いの死体」の役割を成していたのではないか。映画を観た後にふと、この古い本のことを思い出した次第である。

 

【chain】

 

80年代だろうが90年代だろうが2018年だろうが、「平穏」は生きる上での最大の敵のようだ。平穏に抗いながら、タバコも吸うしクラブにも通う。

ドキドキする何かを得ようとする。

 

自分にとっての「川沿いの死体」が、古本屋で見つけた「完全自殺マニュアル」とクラブ通いと考えると、1990年代を生きた自分と同い年くらいの若者とあんまり変わってないような。

まだまだ本当の宝物には出会えてないはずだ。

 

ちなみに今のスマホの待ち受けは漫画版の山田くんである。

美少年最高。

18年1月:「コンプレックス」をテーマにパンドラの箱を開ける

 

このテキストは「She is」にあてた公募作品を、改めてブログ用に加筆したものです。追記した部分をあえて赤字にしております。

 

 

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「普通」という言葉を嫌う自分が一番嫌いだった。

気づいたら髪を刈り上げていた。

 

元々「普通じゃないこと」への願望が強かった。

 

幼稚園からピアノを始めていたせいか、自分には音楽の才能があると思い込んでいた。中学の時はインディーズのバンドにはまり、のめり込めばのめり込むほど「普通の生き方」、いわゆるOLや主婦として生きることに抵抗を覚え始める。中学3年の頃に「作曲がしたいから音大に行かせて」と親に頼み込むようになった。

しかし高校1年生の時に習ったピアノの先生が大の苦手なタイプ。結局レッスンにも行かなくなり、音楽の道をいとも簡単に頓挫する。それでも何かしらの形で音楽に関わりたくて、次に考えたのは理系の道だった。志望理由は「シンセサイザーを作りたいから」。こちらは苦しくも物理学の壁に当たる。肌に合わないと判断し、半年ほどで諦めてしまった。

 

たいしたことない妥協と挫折を重ねた結果、知らない道に迷い込んでいた。そのうちに思い込むようになる。「このままじゃ、何者でもなくなる」と。私の「普通恐怖症」は、気づいたら深刻化してしまっていた。

 

…という一連の挫折のくだりは、所詮自分のコンプレックスを「普通じゃないコンプレックス」たらしめるための口実である。

 

本音を話すと、実際のところは「目立ちたい」という欲が大きかった。

 

小学校・中学校・高校と大して目立たずに、元気なグループの端っこにいるキャラクターだった。結構長い時間一緒にいたのに「いつ来たの?」とか言われることがあったので、相当陰が薄かったと思う。先生にすら驚かれることがあった。

特に小学校で得たダメージは大きく「地味キャラ」「存在に気付かれない系女子」の呪縛がまとわりついていた。

 

(これが真のコンプレックスだ!)

 

しかも周りの友達はみんなかわいいし明るいしモテる。特に可愛くもない自分は勉強を頑張るか、誰も知らない情報を吸収して「博識」になるか、人にない才能を身につけるしかなかった。

 

希望を手にしたのは高校2年の終わりだった。きっかけは長年読み続けてきた音楽雑誌の一般公募欄。気まぐれでディスクレビューを送った半月後、携帯電話に一本の留守電が入る。

 

「『○○』編集部の△△と申します。先日お送りいただきましたレビューにつきまして、掲載のご相談をしたく連絡いたしました……」。

 

初めてもらう原稿料と、自分の名前が載った誌面。

「やっと何者かになれる」。清々しい気分だった。

 

そこからは藁をもすがる思いで編集・ライターの道を進んだ。浪人までして編集の勉強ができる大学へ入学し、在学中には書籍編集のバイトを経験。サークルではフリーペーパーの制作に勤しんだ。

辛いことがたくさんあった。ピアノのレッスンや物理の授業のほうが楽に思えるほどだった。それでも、何者かになれる最後のチャンスだと信じて疑わず、足を止めようとも思わなかった。すべての原動力は陰キャラからの脱出願望だった。

 

痛みに追われ、走り抜けた感覚はあった。

では、私は何者になったか?

 

答えは「普通の一般企業に勤める、普通のOL」である。

一応言っておくと、結構仕事は楽しい。

 

途中から気づき始めていたのだ。好きだったはずのカルチャーを肩書きに利用することの不純さに。走り抜けた結果、「普通」を受け入れていく自分がいた。

 

「でも、枯れたくない」。最後の抵抗があった。

「普通じゃない見た目の方が覚えられやすいし」。本音である。

 

私は襟足を刈った。

 

社会人になる数日前のことである。

美容院へ足を運び、気づけばサロンスタッフへ伝えていた。

 

「後ろ、刈り上げてもらってもいいですか」。

 

バリカンの音が響いて、後頭部が軽くなっていった。

なぜそうしたかは覚えていない(嘘である。先述の通り覚えやすい見た目になりたかったからだ)。でも、人と違う髪型になることで「何者かになりたい自分」から自由になったのは覚えている。

 

この髪型が、私を「普通恐怖症」から解放してくれたのだ。

 

ただ、キャラ作り云々はさておいて、それでも時々溢れてくる感情がある。

雑誌や本を読み漁り、美術館に足を運び、映画を観つづけた日々の衝動。

キャラ作りはさておき「もっと知りたい」「もっと言葉で伝えたい」という欲望に駆られることがある。(注釈:大事なことなので加筆しました)

 

今は、素晴らしい何かが琴線に触れた瞬間を模(かたど)って、遺したくてしょうがない。編集から離れた今になって「何かになりたいから」文章を生みだすのではなく、「書きたいから」書きたくなっている。指先から文字が生まれるのがただ愛しい。

 

この衝動はちゃんと伝えられているだろうか。

どうか、「何者」かになれず苦しんでいる人へ、届いて欲しい。

18年1月:吉野家で白カレーを食べたときの陰陽調和な状況

吉野家の白カレーを食べた。

 

牛丼の舌と胃になって、意気揚々と自動ドアをくぐり抜け

混みついたカウンター席に座る。メニューを見る。温かいお茶を出される。

 

「白カレー」が目につく。

 

牛丼への欲と白カレーへの興味を天秤にかけ、

気づいたら白カレーなるものを注文していた。

普段吉野家に行くと反射的にチーズをトッピングする癖があり、

チーズもトッピングしてしまった。

味の想像がつかないが、なんとなくチーズな気がする。

 

ファミマであっためるのを待つタイミングよりも早く、白カレーはきた。

白い。白いし、なんか固形っぽい。

 

チーズをご飯のほうによけ、溶けていくのを楽しみながらルーを一口掬う。

思ったよりもカラい。じわっとくるカラさである。

 

ココナッツのような風味がする。甘いと思ったらあとあと辛くなってくる。

そして何より固形っぽい。

 

固形っぽい。片栗粉のようなものが入っている気がする。

なんだろう。でも美味しい。固形っぽいけど美味しい。

チーズと固形が混ざり、チーズがより風味をクリーミーにさせる。

それでも固形っぽくて美味しい。

 

黙々と固形を食べていたので、そのうちお冷が欲しくなる。

店員さんを呼ぼうと顔をあげる。その瞬間だった。

 

あるお客さんがお釣りをもらえなかったらしく、店員に声をかける。

店員はまだ新人らしく、戸惑って先輩を呼びに行く。

そのうち、お客さんがまとめて2〜3人、席を立ち始める。

幅80cmもない、狭い空間を店員がノンストップで動く。

レジを打つ店員。お釣りが結局いくら必要なのかをお客さんに聞く店員。

レジを打つ店員とレジの間にできた腕のアーチを潜ろうとし、諦める店員。

避ける店員。

 

「だって、TSUTAYAのアプリが使えるってさっき言ったじゃないですか」

 

お客さんの一人が声を荒げた。

レジが旧式で、アプリでのポイント付与ができなかったらしい。

喉が乾く。

 

店員は困り果て、上の人を呼ぶ。

上の人がキッチンから表に出てくる。試すがポイントは反映されない。

上の人が上の人を呼びに行く。

お客さんは見るからに機嫌が悪くなっていく。

 

「いや、ポイントついたところで数ポイントだけやん」

 

脳内で関西弁が出る。固形はあと3分の1ほど残っている。

固形が口の中から水分を吸い込んで、喉の奥にすべりこむ。

 

「いや、使えないのは分かったんですけど、さっきお店に入るときに確認しましたよね?」

 

いいじゃん。数ポイントだし。

しかし、きっとそのお客さんのなかでは一大事なのだろう。

「たかがポイント」なんて、こっちの都合で思ってはいけないのだ。

 

頭のなかでお客さんの状況をシミュレーションをする。

 

もしかしたらTポイントで何かが欲しいのかもしれない。

もしくはTポイントをかき集めないとお会計が払えないほどお金が無いのかもしれない。

あるいは生粋のポイントマニアで、数ある飲食店ならびに商業施設のポイントを制覇するクチの人なのかもしれない。

 

理由は数あれど、店員への詰めっぷりにはリアルを感じた。

喉が乾いたがお冷を頼めない、死の際を感じている自分と、

何かを必死で求めようとする、お客さんの生の姿。

 

狭いカウンターのなかで、生と死がせめぎあっている。

万物は陰と陽に分けられるという東洋が考えがあるように、

白カレーと黒カレーがある。怒りが生であれば、喉の乾きは死である。

最後の白い固形物をずるっと飲み込んだ。

 

「お会計くださぁい」

 

乾いた喉をよくよくなだめながら、吉野家を出た。

 

喫茶店に入り、お冷を飲む。

トリビアの種」の判定結果のように、内側の細胞がパタパタパタッと「生」へ切り替わっていく。満開の「生」だった。

 

そのうち白カレーの味なんて思い出さず、

「結局あれはカレーだったのか」なんて、白カレーの「し」の字すら思い出さないことすらあるだろう。

でもTSUTAYAの文字を見る度に、きっとあの状況だけがふと思い出されるはずだ。

 

 

一人で食べる食事の記憶なんて、そんなもんである。

備忘録 2017

飯も映画も音楽も含め「どうやって編集したか」を起点に楽しんだ一年だった。

オフィスレディ歴も3年目に突入したので、またずるずると昨年を振り返る。

 

【泡を吹いた音楽:3選】

 

#『何度でも新しく生まれ変わる』MONDO GROSSO

 

乃木坂の斎藤飛鳥起用も然り、

声質を見極めるスキルが高い。MONDOGROSSO節に適したボーカルを当てはめ、楽曲を完成させていくまでの編集能力が突き出ている。

歌声を楽器として取り込んでいくニュアンスに近いのか。

 

#『good vibrations-EP』堀込泰行

 

D.A.Nとのコラボ曲で完全に持って行かれた。気に入りすぎてそのままLP盤も購入した1枚。人選も抜群。

 

MONDOが自分の曲起点でコラボ側をナチュラルに取り込むのに対し、

堀込泰行は相手のフィールドで自己のスタンドを使いこなすイメージである。

 

 

#『SiO2.nH2O』Silica Gel

 

今のジャパンシティポップが山下達郎をオマージュするように、

シリカゲルは「韓国の古き良き」を盛り込みながら、新しいスタイルを築いている。

世界基準なKPOP文脈からは逸脱した動きをしていて、

韓国カルチャーのなかでも特に気になっているバンド。

日本と韓国、海を隔てカルチャーの動きがシンクロしている。目が離せない。

  

【惚れた映画:3選】

 

#『ムーンライト』

 

童話みたいにピュアで残酷な映画。

色んな社会問題をギュウウウっと濃縮還元100%にしているが、

美しい愛の物語であることは変わらない。

ただストーリー以上に、ライティングとカメラワークに感動した。

夜のじめっとした空気と、砂埃の匂いが画面越しに伝わってくる。

 

主人公が第三形態で突然ムキッとなったのは、ちょっと笑った。

 

#『パターソン』

 

終わらない日常の中で、ほんの数ミリずつドラマが動いていくものだから

「最後にめちゃくちゃ悪いことが起きる」こと前提で先読みをしてしまう。

ただ最近の映画の中では、こういった類のもどかしさが残る作品が無く

だからこそめちゃくちゃ印象に残ってしまっている。


明快な起承転結やドラマチック性だけを映画に求めた結果、

映画を観るとき、ずっと緊張が張り詰めている状態なのかもしれない。

 

#『エンドレス・ポエトリー


ホドロフスキーの青年期の葛藤と、少しの後悔を描いたストーリー。

良い意味で不快。ホドロフスキーの血管が勝手に体内を侵略してくる。

無理矢理他人の血を流しこまれているような、最高の不快感である。

 

話とは関係ないが、倉庫でパーティーを開いてみたい。

 

【セクシーだった食:4選】

 

 #ともすけ(馬喰横山

 

森のなかみたいな雰囲気のある、落ち着いた空間の店。

 

野菜をはじめ、素材すべてが甘くてやさしい味がする。

特に鮎のほぐし身のパスタが絶品だった。

ずっとここのパスタをすすって生きていれば、穏やかに寿命を終えられそう。

 

#Locale(目黒)


今年できたばかりのカジュアルフレンチ。

フランス人女性シェフのキッチンさばきを目の前で眺めるのが楽しい。

そしてワインのチョイスが独特で、柑橘系に振り切っていたり、

びりっとスパイシーだったりと、今までに飲んだことのない味を楽しめる。


仕入れる食材が日によって異なり、行くたびにメニューがアップデートされる。

毎週通いたいし、Localeで朝を過ごしたい。

 

#FREY'S Famous Pizza(六本木)


ピザをズルズル滑り込ませたい時に足を運ぶ店として、

2017年、六本木のフレイズがリスト追加された。

 

生地がむちむちしていて食べ応えは抜群なので、

ビール一杯とピザ一皿でサクッと済ませるのが粋かと。

1人〜MAX4人で行くのがおすすめ。

 

ハイチェアに座っているとアメリカ映画の気分を味わえる。

 

#阿里(那覇


沖縄の超ディープなお粥屋。

店自体はビビるほど汚いので、潔癖症の傾向がある人には不向き。

ただ、味は目が飛び出るほど美味しい。

ちょっと塩っ気が効いた、最高の朝食を楽しむならここ。

  

【目眩を起こした展示:4選】

 

#エマニュエル・ソーニエ展

 

ジャズピアニストであるセロニアス・モンクへのオマージュ。

縦横無尽に駆け回る音に、そのまま姿形をもたせた展示。

アニメ映画『ファンタジア』を思い出す。楽譜のなかに飛び込んでいく感覚だった。

 

#草間弥生 わが永遠の魂

 

幼少期のデッサンから今に至るまで、作品量が多すぎて脳内処理が大変だった。

作品を時系列で見ると、彼女がいかに「セルフ・オブセッション」に苦しめられ、

向き合い、昇華させていったかがわかる。

まさにベートーヴェン『運命』のような半生。

 

#JOAN CORNELLA展

 

無表情の無関心さと、ともすれば鑑賞者も「例のあの顔」になっているという不気味さ。

風刺画なのにこんなにもファッショナブル。どこかで見たことあるぞ…。

って思った時に出てきたのが、HAPPY TREE FRIENDS。社会風刺入りのハピツリ。

 

#ジャコメッティ

 

「もうやめて!!」となった。

展示自体は良かったが、フラッシュを作品にたいている人が多く、

インスタ映え」トレンドにめちゃくちゃ苦しんだ。

初めて展覧会に行って負の感情が生まれた。

 

逆にJOAN CORNELLA展では写真に抵抗がなかった(自分も撮った)ので、

写真を撮ってもいいアーティスト・撮らない方がいいアーティストみたいなもんが

自分のなかで区切られるようになったのかなと思う。SNS新基準。

  

【震えた舞台:3選】

 

#『なむはむだはむ』コドモ発射プロジェクト


こどもの作ったストーリーを、おとなが演じるという不思議な実験。
もはやストーリーなんて枠組みはなかった。それでも情景がわかった。

「わざと絵を下手に描く」「わざと音痴になる」ことがものすごく難しいように、

アウトプットが難しい取り組みだったはず。

 

#『野田版 桜の森の満開の下』8月納涼歌舞伎


初めての歌舞伎体験が現代歌舞伎であり、しかも野田秀樹

歌舞伎の伝統的な「型」をベースにしながらも、台詞回しはがっつり野田秀樹調。

大舞台で満開の桜を散らす演出が幻想的で、ずっと観ていたかった。

 

#『BGM』ロロ

 

記憶を呼び戻す痕跡を探し、対話する作品。

シーン毎の鍵となっているのは、江本祐介の楽曲。

BGMによって繋がれる過去と現在の往来が心地よくて、

今と昔がユニゾンを起こした時は、背筋がぞわぞわした。

 

【痺れた雑誌:3選】

 

#HR「フォトジェニックなGeek世代」

 

今の高校生がどんなアプリをダウンロードしているかが気になるのは、

もう高校生とたまたま知り合う機会が少なくなっているからだと思う。

彼・彼女らの「いいね」に懸ける熱量が伝わる、永久保存版の一冊。

 

#EYESCREAM「Seoul Calling 韓国サブカルチャー新世紀」

 

ありそうでなく、とうとう来たと感じた特集。

音楽・アート・書店・ショップ・ファッションをすっきり横断しているので、

次にどこをディグればいいかがわかりやすい指南書になっている。

一番嬉しかったのが、韓国カルチャーの総関係図を作ってくれたこと。

 

#Spectator「パンクマガジン『JAM』の神話」

 

STUDIO Voice」「Tokyo Graffiti」も然り、2017年はおしゃれエロ特集が重なった。

でも一番過激で面白かったのはSpectatorのJAM特集だった。

今や入手困難な伝説の自販機本の再録が嬉しいし、編集長・佐内順一郎の編集記がしびれるほどかっこいい。

 

2018年はエロ本を作りたい。

 

【新しい活動】

 

#韓国と香港に行く

 

香港は満島ひかり「ラビリンス」だけのもんじゃなかった。

もっとグランジだとかハウスだとか、色んな音楽をカチカチ当てはめたい光景だった。古い通りに紛れ込んで、人に追いかけられてみたい。


韓国はひたすらご飯の旅だった。

香港、台湾と経験して、一番日本に近い感覚がある。匂いがほとんど無い。
次に行く時は、昼間のホンデを歩いてみたい。

 

#フィルムカメラを買う

 

もともとデジタルに手を出したきっかけは、写真の知識を取り入れるためだった。

そしてフィルムに手を出したきっかけは、「写ルンです」と比較するためだ。あとは流行。

自分でキリキリと露光を調整するのが楽しい。

 

#インスタのストーリー機能にはまる

 

インスタの配信が一方通行になりがちななか、

新たに双方向の画像・動画コミュニケーションとして活用している。

何より、加工にこだわらずにさっと上げられることにハマる。

 

【総括と今年の目標】

 

2015年に肥やしたのが舌、2016年が耳だとして、

2017年は「文字」を肥やそうとした年だった。

いろいろな書き方、スタイルを知りたかったし、

文字を通して、誰が(どの媒体が)どうやって情報を調理しているかにも集中した。

 

様々なジャンルの雑誌・書籍を読み込むなかで、

だんだんと自分が欲しいと思う「新情報」の意味合いが

「鮮度を求めるもの」から「斬新さを求めるもの」へと変わってきている。

 

まだ処女を捨てきれていないコトモノが世界には多いので、

次はどこの新情報で処女を捨てに行こうかと、うずうずした新年である。

 

高木 拝

 

昨年度以前のアーカイブはこちら

 

none67.hatenablog.com

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