チェーン・スポーキング

カルチャーずるずるモノローグ

18年9月:「スローライフ」の行方を考えつつ自省する/ポートランド備忘録

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訪れた場所については前回と大して変わっていないが、前回と同じ動きをしたからこそ、分かったこともある。出来るだけ「新たな気づき」を残そうと思う。

 

[Place]

 

ポートランドは、川を隔てて東と西で文化が分かれている。
西側はいわゆるビジネス街で、ホテルや金融ビルが立ち並ぶ一方、西側は言うなればシモキタや高円寺みたいなもの。ヴィンテージファッションやレコード、ライブハウスなどのカルチャーが密集している。

数年前に行ったときの記憶と大きく違ったのは、ノースイーストエリアのAlberta St.(アルバータ通り)に「FOR LEASE」が目立つことだった。


かつて「徐々に活性化していく」可能性を示唆したエリアだったが、そこから横に店が広がるわけでもなく、同じ店が同じ場所に留まっているだけだった。

前行った時にairbnbのホストが言っていた「家賃がどんどん高騰している」という言葉をふと思い出す。

 

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ちなみに濃ゆいジェラートが有名なSalt&Straw(ソルトアンドストロー)や、フライドチキンをサンドした暴力的なブランチを楽しめるPine states Biscuit(パインステートビスケット)など、数年前に訪れて感激したようなお店は大盛況。以前訪れた時には経験しなかったような行列が出来上がっていた。食にうるさいポートランダーや観光客がこぞって認め、噂が噂を呼んでいる模様。ただ、食に関するニューカマーは未だ現れないようで、まだまだ玉座から引き剥がすことはできないらしい。

※ちなみにガイドブックを読んで気になったのは、やけにアワードを取るレストランがダウンタウンに密集していること。しかも、カジュアルなお店よりもシックなお店に注目が集まっているような。食が徐々にラグジュアリー化していく印象だった。

 

一方で、平日でもおしなべて活気があったのは、サウスイーストと呼ばれる地域にあるHawthorne Boulevard(ホーソン・ブルーバード)という通り。

 

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数年前にあった古着屋はほぼ健在、かつ、「古着屋エリア」自体も拡大していた。うまいコーヒーは西側でも飲めるが、イケてる古着はホーソンでしか手に入らない、というステータスが確立されている様子だった。

 

[Traffic]

 

また「これは新しい!」と思ったのは、人々の移動手段。米国で流行しているLimeBikeを活用する人が多い。

 

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もともとシェアサイクルの文化ではあったものの、街を歩いていて特によく見たのは、このキックボード型の電動バイクに乗っている人たちだった。アプリでピッとタッチして、そのままピューっと乗っていき、好きなところにそのまま乗り捨てできる。若者だけではなく、スーツの男性や上品めのおばさんとかも活用していたのは面白かった。健康志向というよりは、移動手段としての利便性を取っているのだなと。

 

それにしても、新しいものやサービスをスッと受け入れる、街の人の吸収力はすごい。

 

[Stay]

 

なお、今回の目玉は観光というよりも「居住」だった。ACE HOTEL(エースホテル)に滞在するという以前からの夢がとうとう実現した。

 

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普通のホテルと大きく異なる点は、アメニティと呼べるものが無く、最低限の家具だけで部屋が出来上がっていること。
家具や内装をこだわり抜いた過程が滲み出ていて、理想的な暮らしのロールモデルが、部屋のデザインから浮かび上がってくるのが面白かった。この机とこの椅子なら、こんなモノを食べるだろうしこんなモノを着るだろう、といった具合に。

 

ただ、そういった指南に対して「まだそんなこと言ってんの?」という感覚はどうしても拭えない。
先述の「人気店は大盛況」の話もあるが、ポートランドの「スロー」が、文化の発進という意味で、悪い方向に向かっているような気がする。
NYが目まぐるしく新しいもの、よりよいモノを生み出す場所なのに対して、ポートランドは当たったものを集中して伸ばしこむような感覚。まさか空港にスタンプタウンがあるとは思わなかったし、こんなところにまで?という場所に有名な紅茶ブランドのSteven Smith(スティーブン・スミス)が蔓延していた(便利だったけどさ!)。

 

[Chain]

 

一応言っておくが、別にポートランドを責めているわけではない。
どちらかというと自分の変化のせいもある。

ポートランドは、昨年観たジム・ジャームッシュ監督の「パターソン」という映画を彷彿とさせる。毎日詩を書きながらバスの運転手をする主人公の一週間を描いた、「終わりなき日常」系の作品である。

 


『パターソン』本予告 8/26(土)公開

 

「同じことを繰り返していると、ちょっとしたことでも特別になる!」と言ってる暇は、私自身には既になくなっていて、むしろ目まぐるしい毎日から短期間で成長することを是とするようになっていった。結果、街の小さい機微(例えば、コーヒーや紅茶、ジェラートの次に何が来るか)に気づけなかったのは悔しかった。


同じカテゴリが伸びる街というよりも、特定の文化がいきなり生まれるタイプの街だったにも関わらず、「次に何が来るのか」のアンテナが張れなかったのは、今回の旅の反省点である。

 

とはいえポートランドのカルチャー水準が、未だにめちゃくちゃ高いことだけは肌身に感じた。毎秒何センチ、という微妙なスピード感で、ちょっとずつ街のトレンドは動いているはずなのだ。なにせ、吸収の早い街だから。

 

自分の責務として、また数年後、定点観測的に訪れたいと思う。

 

[SOKUJITSU]

 

ちなみに、結構前回のポートランドおすすめスポットガイドが好評だったので、今回の旅をパンフレットにまとめるつもりです。誰か助けて。

 

18年9月:風邪に苦しみながらセクシー熟語山手線ゲームをする

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つらい。関節が痛い。

 

嗅覚が奪われて、食が進まない。

何も食べたくなくて、強いて言えばさっぱりしたものを喉に通したい。

自然と選ぶのは、ゼリーとか果物とかプリンとかの類になる。空腹にもならなければ満腹にもならないものだけを、ここ数日食べている。

 

熱が出ると生憎「寝る」以外の治療法が無く、起きては寝て、寝ては起きての繰り返しになる。

 

そうなると、やることといえば寝ながら出来ることーー例えばTwitterとかFacebookとかYoutubeとか、スマホで完結し、かつ頭を使わないものになってくる。ひたすら「都内で3ポンドステーキが食べられる店」を探しまくったり、ラーメンYoutuberのチャンネルを初回から飛ばし飛ばしで観たりしていた。

 

ただ、人間何も考えられない環境に置かれると、だんだん頭が悪くなってくるようで、思考のリズムみたいなものが、だんだん単調になる。

 

通常時なら変拍子くらいは打てるものが、ここまでHPが下がるとなんかもう、かろうじて手拍子だ。ビートを刻めない。裏打ちができない。

 

そこで始まったのが、掲題のゲームである。

 

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ことの発端といえば、自分の熱を計った時だった。

 

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微熱である。ここでふと思った。

「微熱ってどこからが微熱なんだろう」。

というのも、自分は体温が異常に低く、平均35度台、たまに34度台も記録するほどの「アツくなれない人」なのだ。

そこからすると37度って結構高いのだ。これを微熱として片付けるのがもったいなくなってきた。

 

Google先生に聞いてみたところ、どうも結論、上記の場合でも「微熱」らしい。平均体温に関わらず、37度台が微熱の定義、とのこと。

 

ふと思う。

 

微熱って、めちゃくちゃエロい響きだな、と。

 

微熱という言葉のもつ気だるさたるや。

健康と病気のちょうど真ん中で、身体に不自由は無いのに熱だけを帯びているとは。エロい。エロいぞ。MOONCHILDが題材にしているくらいだ。

 

よく人に惚れた時の表現に「熱」は出てくる。興奮した時に帯びる熱が恋愛感情と直結してるのか、見つめる時は「熱い視線」だし、口づけも「熱いキス」になるし、触れられれば「(熱で)溶ける」。恋愛は温度感高めの行為なのだなと実感する。

 

逆に、この恋愛感情に近しいもので、ギリギリ恋愛に関連しない熟語をピックアップすれば、それなりにセクシーになるのではなかろうか。

その中でも、石田衣良先生もW村上先生も取り上げていないような「マイナーセクシー」な熟語を選びだしたら、ノーベルやんちゃで賞(スチャダラパー)も確実である。

 

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「夢遊」

ウキウキというか、ふよふよしてる気分である。

 

「焦燥」

焦がれてるし、焦るし。

 

「狼狽」

「けものへん」が二つ並んでるあたりが。

 

「咀嚼」

ちょっとフェチっぽいところが。

 

 「融解」

物体が溶ける温度が融点で、融解はモノが熱で溶けること。ちょっとダイレクトすぎるか。

 

 

ちょっとずつ近いところから遠いところへ離れていくと、恋愛というよりも趣向の域に至るのが面白い。ただ、悲しいのはこの行為から、次の結論に至るまでのHPが残っていないことだ。

 

自分がそこまで明るい恋愛をしてこなかったような気がしてきて、これ以上ネットの海に自分の恋愛癖を晒すのは止めようと、微熱に浮かされながら、そのままスマホをほっぽりだした。

 

18年8月:夢を記録する

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脳が暑さに耐えかねて、夏場はよく夢を見た。全部を覚えている訳ではないが、夢で起きた出来事を忘れないよう、咄嗟にメモすることがある。

しょうもない夢ほど、細部までよく覚えている。

 

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例えばこんな夢を見た。

 

深夜に大鳥神社前の通りを、数人の仲間と歩いている。
坂道を降りていくと、誰かが後ろからしがみついてきた。私はそのまま歩き続ける。坂はとても長い。
場所が変わって、暗い古びたホテルで1人起きる。時計は8:30を指していて、「目黒から会社は遠いんだよな」と感じる。
私は人と坂道を登るが(1人でホテルにいたはずなのに)、途中で忘れ物を思い出す。忘れ物を取りにホテルへ戻るが、足は地面から10cmくらい浮いていて、走るというよりも、滑っている。滑ったまま、川を渡る。

 

場所が変わって、自宅のリビングに立っている。音楽雑誌へ応募した原稿が、家に返送されてきた。ぐにゃぐにゃした鉛筆文字で、何やらこう書いてある。文字は薄くて覇気がない。私は目を凝らして読む。


「もうちょっとです、頑張ってください。あなたは最高に気の毒な人です。もしこの仕事に興味があるようなら、0000@gmail.comまでご連絡ください」


次に目を開けると、某雑誌の出版社に私は立っている。事務所には、キャップを被って痩せたオシャレ眼鏡の男が、横柄な態度でソファに座っている。
「かわいそうに、魚とキスしよう」。

中年の男が私の手を引っ張って階段へ連れていく。踊り場まで引きずられたところで、それ以上手を引き込まれないようにと、ついしゃがみこむ。顔をあげるとドアの向こうでは、水槽が壁一面に並ぶ。足元にはカワウソが二匹、肌を濡らしている。

 

目が覚める。遅刻する。

 

**********

 

こんな夢を見た。

 

賞味期限切れの、四角い豆乳(1000ml)を持っている。特にキツい匂いもなければ、味も悪くはなってない。自分はそれをくいーっと勢いをつけて飲む。

周りの友達は訝しげな顔をする。そんなもん飲んで大丈夫なの、という具合に。

別にどうってことないし、不味くもなってないのだから、自分がなぜそんな変な目で見られるのかがわからない。また豆乳を飲む。暗い木造の部屋に、夏の眩しい光線が差し込む。

 

朝起きると、お腹が痛い。
キリキリした嫌な感覚に耐えながら、家を出て電車に乗った。

 

**********

 

こんな夢を見た。

 

いつも遊ぶメンバーで、空港(多分記憶を辿るにロサンゼルスかポートランド)に降りたった。夕方の17:00頃で、そのままホテルに行こうにもどこか勿体無く、遊び場(クラブイベント)を探すことにする。

皆で空港のベンチに座りながら、頭を寄せてネットで検索をかける。しかし一向に良いイベント情報にたどり着かない。その土地で有名なクラブの名前でサーチをかけても、なぜか2017年で更新がストップしていたり、変なテキストサイトに飛んだりする。

Facebookのイベントぺージで場所を指定したりするのに、どうも良いやつがない。というか、どれが良いかが一切分からない。

これが現実なら「ご飯に行ったり大人しくホテルに行けばいい」という結論に至るはずなのに、なぜか自分は「どうしてもイベントに行かなきゃ」と思い込んでいて、別のソリューションにたどり着かない。

 

「どうしよう、今日はどのパーティに行けば良いんだろう、どうしよう、どうしよう」と、頭が真っ白になったところで目が覚めた。

 

喉が痛くて汗びっしょりの状態で、腕が体に押しつぶされている状態だった。

これは悪夢なのだろうか。

 

**********

 

明確に覚えている夢というのは、「この出来事がきっかけなんだな」という心当たりが確かにある。現実で起きたことと夢がごちゃ混ぜになっていて「微妙に本当」の情報になっているからこそ、「記憶と夢が繋がっているんだな」ということを実感させられる。

 

しかも、夢で出てきたような場所に実際に立ち会うことになったり、幸か不幸かほとんど同じような状況になったりするもんだから、夢占いもあなどれないなと思った次第である。

 

ただ、三つ目の夢は自分でも「病気の域かもしれない」と思ったので、クラブはちょっとばかし控えた方が良いものかと、考えあぐねている。

夢占いができる人、この夢がどういう意味を持つのか教えてください。

 

17年7月:マームとジプシー「BOAT」と映画「万引き家族」から、人を待たせる辛さを考える

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自分は待つことにあまり苦を感じたことが無くて、待ち合わせに相手が30分遅れようものなら、好き勝手にフラフラと散歩に出てしまう癖がある(そしてだいたい遅刻者よりも遅刻する)。

 

そして、待つことの苦しみを知らずに生きてきたせいか、遅刻する時ほど大掛かりな遅刻をすることが多い。

寝坊で遅刻をするのではなく、母親が淹れたお茶が美味しかったり、朝ごはんの味噌汁に感動したり、書店で手に取った本が面白かったりという理由で遅れるものだから、自分でもタチが悪いと思っている。

 

自分でも分かってはいる。

でも待ってくれる人がいると分かっているうちは、どうも悪いことに、愛されているなと感じてしまう。

 

 

[playing]

 

 

マームとジプシーの「BOAT」を観た。

 

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今まで観た演劇のなかでもピカイチに良い。

 

*******

 

舞台は漂着した移民が流れ着いた末に出来上がった街。

「余所者」は数ヶ月前、別の国からボートを使って逃げてきた。流れ着いたこの土地で、荷物を運ぶ仕事をしている。

「余所者」は元からいた街に住む奴らから、あまり良く思われていない。彼らは言う。「ここは俺たちの街だ、余所者にここの勝手が分かるか」と。しかし、彼らもルートを辿ると遥か昔は余所者だったわけで。彼らはそのことをすっかり昔に忘れてしまっている。

 

「余所者」は回想する。「僕のいた街では、ここと同じように煙突があった」。

なお「余所者」の帰りを異国で待つ人はいない。故郷はボートの襲来を受けて粉々にされてしまっている。

 

街の人々はこぼす。「街は誰のものだ?俺らのものだろうが」。

人々は「余所者」や、「余所者」のような移民たちを嫌悪する。

 

ある日空から多くのボートが押し寄せてくる。襲来するボートは街を破壊していく。人々がボートに乗って別の国へと逃げていく中、瞬時にして様々なドラマが動き出す。誰かを「待つ」ために街に残り続ける人、誰かを「待つ」ことをやめ、自ら命を絶つ人、また混乱に乗じて「待たれることのない」人に暴力を振るう人、等々。

 

*******

 

 幾度も繰り返される同じセリフが、姿、形、意味を変えていく過程が美しい。

シーンがフラッシュバックし、別のシーンと重なりながら、どんどん言葉に新しい意味が加えられ、伏線は回収されていく。

 

その中でも徐々にマクロに、あるいはミクロになっていくのは「待つ」という言葉だ。

劇中には、船に出て帰ってこない人を文字通り「待つ」人がいる。

誰かを待つということは、物理的な行為だけではなく、そここそを誰かの帰ってくる場(=帰属)にする行為なわけで。国籍や住居ではなく、「待つ」「待たれる」という行為が、その人の故郷を作り出しているのだと知る。

待っている人がいるということが、その人の「故郷」になるのだとしたら、「故郷」とは、いくつあってもいいものであるし、ふとすると「故郷」が無いこともありうる。

 


[movie]※ネタバレあり

 

そういえば「万引き家族」は「ルーツ」の無い人々の話ではないか。

 


映画「万引き家族」本予告編

 

歪ながらも、一瞬でも全員のピースが合わさって「家族」が形成された物語、ではある。

 

だがラストシーン、あっけなく家族の形が崩れ去り、跡形も無くなってしまったのは、誰が誰のことを「待つ」ことも、「待たれる」ことも無くなってしまったからなのだ。

 

もし誰かが誰かのことを待っていれば、そこに家族の続きはあったかもしれない。

でも、最後は誰も待たなかった。故郷は無くなり、人々は散った。

彼らもまた、別々のボートに乗り、バラバラの国へ降り立ったようなものだ。

 

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よく遅刻をして人を待たせているときに思い出すのが、太宰治の言葉である。

 

太宰治檀一雄と熱海旅行に行った時「宿代を東京の菊池寛に借りてくる」と言い残しながら、檀を旅行先の宿に置いてけぼりにし、先に帰ったことがあるらしい。
しかも檀がキレながら帰ってきたとき、太宰治井伏鱒二と呑気に将棋を打っていたという。

 

カチキレている檀を前に、太宰はこう言ったらしい。

 

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」。

 

待たせる方も辛いと。

すごい言い訳である。今度使おうと思う。

 

 

でも「待たせる方が辛い」はなんとなくわかる気がする。

待つということは、少なからず相手に愛情がないとできない訳で、こんな人を待たせるような人に注いでくれる愛情なんて、自分の身に余りすぎると感じてしまうことがある。

 

待つ人たちは、強い。意思が強い。

待たせる人たちは、その意思の強さに負けそうになる。

逆に待つことも、待たれることもない人たちは、拠り所がないんじゃないか。

そう思った時に「万引き家族」で感じた「拠り所」の温かみが分かった気がした。

どんなに歪んでても、拠り所がある。仮初めのルーツが出来上がる。「待つ」「待たれる」関係は美しい。

 

とはいえ遅刻は良くないので、なんとかしようとは思う。

 

18年6月:「君の名前で僕を呼んで」をただのLGBT映画だと思っている奴、とりあえず観てこい

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四捨五入しても逃れられない「アラサー」になろうとしている15分前。

日付を越えてからがカウントダウンの始まりである。要は誕生日だ。26歳になる。

でもこの記事を公開する頃には、もう戻れない道を歩み始めているはずだ。ありがとう25歳。とても楽しかったよ。

 

本来であればエモーションのままに25歳の振り返りをするべきところではあるだろうが、

 

ぶっちゃけ今は自分の誕生日とか心底どうでもいい。

クッソどうでもいい。

 

君の名前で僕を呼んでについて語りたくてハゲそうなのだ。

 

[movie]

 

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君の名前で僕を呼んで : 作品情報 - 映画.com

 

映画館で初めて、上映中に「尊い…」と漏らしてしまった。

音楽良し、役者最高、カメラワークも素晴らしい。全てが美しかった。

あとは80年代後半特有のいなたいスタイリング。完全に自分のツボに入ってしまい、終始過呼吸の一段階手前みたいな状態。まさに雑誌「POPEYE(ポパイ)」に出てきそうな、ゆるいテイストである。特に「大きめのトレーナー×短パン×ライン入りソックス」というスケーターみたいな組み合わせが最高の極みで、1人でハゲそうになっていた。

 

いろんな要素が重なりに重なって、映画館を出る頃から今に至るまで、もはや「ハゲる」「尊い」「吐きそう」しか言えないBotと化している。尊い。尊すぎてハゲそう。

 

ただ、何よりもどストライクにツボを直撃したのはやっぱり(?)ラブシーンだった。

爽やか、かつ本気。真夏の部活帰りのJKが持つシーブリーズに劣らない清涼感だった(キモいなあ…)。

しかも観ているうちに「男×男」が一切関係なくなっていくから不思議である。

 

語弊が生じるかもしれないが

正直、従来私がイメージしてきた「LGBT映画」という括りの中では、この映画を語りたくないと強く感じた。

 

それは、LGBTを拒絶する人たちが一切出てこないからだ。この映画には「ゲイだから」という理由で彼らを軽蔑する視線が出てこない。性別によるハードルが、こと恋愛においてほとんど無いのだ。というか「ゲイ」でも無いかもしれない。たまたま好きになった人が同性だっただけ、程度のノリである。

 

今までLGBT映画を、真剣にかつ数多くは観ていないのでアレなのだが、

正直私のイメージする「LGBT映画」とは「性別による苦難と周囲の視線を乗り越えながらも、同性同士の恋愛における幸せを手にする」映画だった。「LGBTであること」がストーリーの中心軸にあるジャンル、というイメージである。

 

例えば過去に衝撃を受けた作品を挙げるとすれば「アデル ブルーは熱い色」。

 


アデル、ブルーは熱い色

 

「アデル」が周りの蔑視や主人公本人の葛藤、登場人物同士の気持ちのぶつかり合いによってエネルギーを消耗する映画だったのに対し、「君の名前で僕を呼んで」は言ってしまえばストレスフリーだった。

 

レインボー・パレードのいらない世界。だからこそ、この映画は革新的だ。

 

もはや同性愛が様々な社会的ハードルを乗り越えるものではなく、あくまで作品の「一要素」として取り上げられるフェーズに入っているのかもしれない。

10年代後半以降、より注目され、頻繁に公開されていくLGBTテーマの映画の中でも、「君の名前で僕を呼んで」はまさに「サマー・オブ・ラブ」なハイ・インパクトのある作品なんじゃないかと思っている(ひと夏の恋、なだけに)。

 

そう、これは「人×人」の恋愛映画だ。椎名林檎が言うところの「男にも女にもならない」を、ワンシーンごとに一歩一歩体現していた。だからこそ「君の名前で僕を呼んで」は私にとって、「17歳の感受性豊かな子供と居候の甘酸っぱい恋を描いた作品」という括りになっている。

 

という訳で、「LGBT映画がちょっと苦手」と思っている奴、とりあえず観てこい。

これは恋愛映画だ。観てて胸が苦しくなるほどの恋愛映画である。「ママレード・ボーイ」よりときめくかもしれないぞ。とりあえず、観てこい。

 

 

追記:エリオ役のティモシー・シャラメ、マジ天使。

 

 

18年5月:10cmのヒールにようやっと認められる

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もっぱらローヒールに頼りがちではあるものの、ちょっとだけ女になりたくなる気分があって、10cmのヒールを引っ張り出し、会社までの道を歩いてみた。

 

履き始めこそ、かかとが当たったり、つま先が妙に痺れたりして血が止まる感覚を受ける。社内ミーティングの時なんて、痺れに耐えきれずちょっと靴を脱いだり、伸ばしたりした。

 

ただ、それが帰路に着く頃には気づいたら何も感じなくなって、

ようやっとヒールに認められたような気分に心地よさを感じた。

 

思えば単純なもので、どれだけ足に傷をつけようとも「その靴に認められた」と思った瞬間に、自分が最高の女性になれたような自信が溢れ出てくる。

痛い思いを代償に、一つの地位を得たような気分になる。だからこそ、無性に履きたくなるし、足を痛めると分かっていても履く靴がある。

そういう靴のことを、敬意を持って「殺意のある靴」と呼んでいる。

 

人から聞いた話ではあるが、イタリアで靴を仕立てるとき、靴屋は自分のサイズに合った靴を提供してくれないという。むしろ美しい型の靴に、自分が合わせるのだと。

靴が自分に合わせるわけではない。自分が靴に歩み寄らなければいけないのだ。

 

だからこそ、「靴に自分が認められた」瞬間はたまらなく嬉しくて、転びそうになりながらも軽く小走りなんかして、地面とつま先が離れていく気持ち良さを噛みしめる時があるのだろう。

 

[music]

 

PREPの初来日ライブに行った。

 

Cheapest Flightを最初に聴いた時、背伸びして聴くものだと感じていた。

そりゃあ、わかりやすい音楽ではある。それでもどこか手の届かない次元にある音楽のような気がしてて、自分にとってこの曲を「自分ごと」化するにはまだ先の話だと思っていた。

 

ただ、手の届きそうなほど近い空間で、声のよく通るライブを目前にし、さらにはメンバーと代官山UNITで会話したうえで、やっとPREPが「自分のもの」として落とし込まれた気分になった。

 

ただ単純に歌が上手く、演奏が素晴らしいバンドではなくて、その場にいることでこちらからステージのあちら側に歩み寄ることができる、そんなショウを日本で、かつ初めての来日という記念すべき瞬間に立ち会えたことは本当に誇りに思う。

 

[music]

 

直近で行ったnils frahmのライブもその傾向があった。正直、音源として楽しむニルスは近寄り難い神聖なサウンドの印象があった。

それで踊れるかと言われたら、踊れる自信は毛頭なく、考えて、考えて、考え抜いてやと歩み寄れたかな、という感覚。

ただ、こちらからライブに足を運んでみて思うのは、敷居の高さに反し、敷居を勇気出して乗り越えるととんでもない快感が待ち受けているということだ。

 

ここまで骨が溶けそうになるライブは久々で、(人がどんどん倒れていく中でも)どんどん近くに寄って、どんどんその危険な火花を浴びてみたい気持ちになった。

 

レコーディングスタジオのような巨大な機材の中を歩き回るニルス、まさに職人が音楽を一つ一つ組み立て、より繊細なプロダクトを築き上げるようだった。

 

[play]

 

茶番主義!の「白い馬の上で踊る」は、一方で「歩み寄り」に任せてしまっているような感覚を受けた。

構成は素晴らしいし、表現は癖があるものの、画期的ではある。ただ、文脈として繋ぎ着れない演出を「あとは自分で解釈できるでしょ?」と投げてしまうことは、表現作品として難易度が高すぎる。

コンテンポラリーの解釈が難しいからこそ、それを雑多に扱うことはできないし、こっちも考えるなら頭をフル回転させて考える覚悟はできている。ただ、その観客の覚悟に委ね過ぎてはいけない。

イタリアの職人だって「人間の足の形」を理解していなければ、血を流しても美しい靴を作れないように。

美しい形を作る術が分かっていることは身にしみて理解したから、次は人の足の形に合わせる技を身につけてほしい。

 

[chain]

 

そこまでを、足に豆を作り、お酒に酔っ払いながら考えた。

きっとしばらくはハイヒールを履きながら、時に足を引きずり、時に絆創膏を貼りつつ、一歩一歩を踏みしめて歩く生活が続くようである。

 

この前奮発して買った竹内まりやの「Plastic Love」12インチを流しつつ、その曲がいずれ自分の味方になってくれることを信じながら、曲に歩み寄って、いずれ歌詞の真意がわかり、流すべき瞬間が来ることを待ち望んでいる、今日このころである。

 

 

18年2月:92年生まれ25歳の「リバーズ・エッジ」と「完全自殺マニュアル」

【Chain】

 

もっぱらクラブに出入りするようになった。

 

特に踊りが得意な訳でも、音楽の知識がある訳でもないが、

年明けあたりから急にハマり始め、主に渋谷近辺に立ち寄るようになった。

アナログなサウンドが性に合うので、ディスコなパーティに顔を出すことが多い。

 

フロアの環境が好きだ。

誰も自分のことを気にしない状況で、匿名者に成り下がりながら、誰にも見つからずに暗がりで踊るのがちょうどいい。

重低音に心臓の動きを全て委ねるのも、明け方の外気に触れて自分が溶けるような感覚に陥るのも、全てが心地よいのだ。

 

その、自分が無に溶け込んでいるという実感の中から、ふと「生きてるなあ」と感じることがある。

 身体中のあらゆる「自力」を棄て、身体を音楽に寄りかからせながら、

いてもいなくてもいい環境の中で、自分というものを実感する。

だからもっぱら渋谷に通う。

 

【Movie】

 

Base Ball Bearの「17歳」という曲の中に「生きている気がした気持ち」という歌詞がある。それをiPodで聴きながら「あー、今超生きてるわ」なんてバイオリンを担いで帰ったのが、自分の高校生時代である。

その時の「生きる実感」とクラブで踊る「生きる実感」はもうかけ離れている気もする。感じかたを徐々に変えていきながら、いよいよ生き長らえて社会人になった。

 

20数年も生きていると「超生きてるわ」なんて、普段あんまり思わないもんである。

ただ、ふとした拍子、……例えばクラブで空気に溶けたり、ジャクソン・ポロックのデカイ絵画を目の前にしたり、何か得体の知れないものを見てしまった時などに、それに近い実感を得ることはある。

 

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

  

リバーズ・エッジ」を初めて読んだときも、感想は「超生きてるわ」だった。

死体、自分より弱い者、自分より美しくないものを見下す誰かがいる。

そんな彼ら・彼女らを更に「神の目」で見つめる自分がいて、

目線を同調させたり、見上げたり、見下したりといろんな角度から迫っていく。

 

彼らが「見下す者」のワンオブゼムであるように、「リバーズ・エッジ」を読む自分もワンオブゼムであること、そして見下すことで「生きている実感」を得ていることに気づく作品だ。

 

そのワンオブゼムがどういった表情をしていて、どういったことに喜び、悲しんでいるかにフォーカスを当てたのが、映画版「リバーズ・エッジ」である。

 


映画『リバーズ・エッジ』、小沢健二が歌う主題歌「アルペジオ」入り予告編

 

岡崎京子の白く抜けたタッチからはやや遠くて、厚みが出てしまっていた。原作の方がもっとみんなおちゃらけていたし残酷だったな、と思う。平面のままでいるべきものが妙にぬめぬめとしたテクスチャで立体化しちゃったような感じである。

 

でも、二階堂ふみのインタビューシーンがリアルで忘れられない。

映画冒頭でグロテスクに焦げたぬいぐるみを持ち、空っぽの笑い方をする。

どんな時代の「最近の若者」よりも表情が空虚だった。

だからこそ、死体を見つめる顔を生き生きと感じる。役者の表情のコントラストが強い作品だった。

小沢健二の主題歌が底抜けに明るいサウンドなのも、時代の空虚を表していると考えると合点が行く。(もっとグランジっぽいBGMを想像していた)

 

【Book】

 

「リバーズエッジ」とだいたい同じ時期に出された本に「完全自殺マニュアル」という作品がある。

  

完全自殺マニュアル

完全自殺マニュアル

 

  

「いつでも死ねるような状況を作ることで、生きている実感を得る」。

そういったコンセプトのもと、首吊りや飛び降りの正しいやり方と失敗例をレクチャーする、トンデモナイ本である。

結構タメになる(?)もので、人間が死ぬということがどれだけ難しいかを知ることができる。

 

数年前にたまたま神保町の古本屋で実物を見かけたものだから、つい手に取ってしまったのだが、ちょっと中身を覗いたきり本棚の肥やしになっていた。

映画を観る前、何も考えずにパラパラと読み返していたところ、よりによって前の持ち主の痕跡がべったりと付いているのを見つけてしまい、ギョッとしてしまう。 

 

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元の持ち主は、なぜこのページにマーカーを引いたのか。

持ち主はどういう気持ちでこの本を買ったのか。果たしてこの本を「使った」のか。

終わらない、何もない平坦な戦場の中で、どうやって「生きている実感」を探そうか迷い、買ったのだろうか。

 

この本が、刊行された当時1990年代における、ーー少なくともこの本の前の持ち主にとってはーー「川沿いの死体」の役割を成していたのではないか。映画を観た後にふと、この古い本のことを思い出した次第である。

 

【chain】

 

80年代だろうが90年代だろうが2018年だろうが、「平穏」は生きる上での最大の敵のようだ。平穏に抗いながら、タバコも吸うしクラブにも通う。

ドキドキする何かを得ようとする。

 

自分にとっての「川沿いの死体」が、古本屋で見つけた「完全自殺マニュアル」とクラブ通いと考えると、1990年代を生きた自分と同い年くらいの若者とあんまり変わってないような。

まだまだ本当の宝物には出会えてないはずだ。

 

ちなみに今のスマホの待ち受けは漫画版の山田くんである。

美少年最高。