17年7月:マームとジプシー「BOAT」と映画「万引き家族」から、人を待たせる辛さを考える
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自分は待つことにあまり苦を感じたことが無くて、待ち合わせに相手が30分遅れようものなら、好き勝手にフラフラと散歩に出てしまう癖がある(そしてだいたい遅刻者よりも遅刻する)。
そして、待つことの苦しみを知らずに生きてきたせいか、遅刻する時ほど大掛かりな遅刻をすることが多い。
寝坊で遅刻をするのではなく、母親が淹れたお茶が美味しかったり、朝ごはんの味噌汁に感動したり、書店で手に取った本が面白かったりという理由で遅れるものだから、自分でもタチが悪いと思っている。
自分でも分かってはいる。
でも待ってくれる人がいると分かっているうちは、どうも悪いことに、愛されているなと感じてしまう。
[playing]
マームとジプシーの「BOAT」を観た。
今まで観た演劇のなかでもピカイチに良い。
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舞台は漂着した移民が流れ着いた末に出来上がった街。
「余所者」は数ヶ月前、別の国からボートを使って逃げてきた。流れ着いたこの土地で、荷物を運ぶ仕事をしている。
「余所者」は元からいた街に住む奴らから、あまり良く思われていない。彼らは言う。「ここは俺たちの街だ、余所者にここの勝手が分かるか」と。しかし、彼らもルートを辿ると遥か昔は余所者だったわけで。彼らはそのことをすっかり昔に忘れてしまっている。
「余所者」は回想する。「僕のいた街では、ここと同じように煙突があった」。
なお「余所者」の帰りを異国で待つ人はいない。故郷はボートの襲来を受けて粉々にされてしまっている。
街の人々はこぼす。「街は誰のものだ?俺らのものだろうが」。
人々は「余所者」や、「余所者」のような移民たちを嫌悪する。
ある日空から多くのボートが押し寄せてくる。襲来するボートは街を破壊していく。人々がボートに乗って別の国へと逃げていく中、瞬時にして様々なドラマが動き出す。誰かを「待つ」ために街に残り続ける人、誰かを「待つ」ことをやめ、自ら命を絶つ人、また混乱に乗じて「待たれることのない」人に暴力を振るう人、等々。
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幾度も繰り返される同じセリフが、姿、形、意味を変えていく過程が美しい。
シーンがフラッシュバックし、別のシーンと重なりながら、どんどん言葉に新しい意味が加えられ、伏線は回収されていく。
その中でも徐々にマクロに、あるいはミクロになっていくのは「待つ」という言葉だ。
劇中には、船に出て帰ってこない人を文字通り「待つ」人がいる。
誰かを待つということは、物理的な行為だけではなく、そここそを誰かの帰ってくる場(=帰属)にする行為なわけで。国籍や住居ではなく、「待つ」「待たれる」という行為が、その人の故郷を作り出しているのだと知る。
待っている人がいるということが、その人の「故郷」になるのだとしたら、「故郷」とは、いくつあってもいいものであるし、ふとすると「故郷」が無いこともありうる。
[movie]※ネタバレあり
そういえば「万引き家族」は「ルーツ」の無い人々の話ではないか。
歪ながらも、一瞬でも全員のピースが合わさって「家族」が形成された物語、ではある。
だがラストシーン、あっけなく家族の形が崩れ去り、跡形も無くなってしまったのは、誰が誰のことを「待つ」ことも、「待たれる」ことも無くなってしまったからなのだ。
もし誰かが誰かのことを待っていれば、そこに家族の続きはあったかもしれない。
でも、最後は誰も待たなかった。故郷は無くなり、人々は散った。
彼らもまた、別々のボートに乗り、バラバラの国へ降り立ったようなものだ。
[Chain]
よく遅刻をして人を待たせているときに思い出すのが、太宰治の言葉である。
太宰治は檀一雄と熱海旅行に行った時「宿代を東京の菊池寛に借りてくる」と言い残しながら、檀を旅行先の宿に置いてけぼりにし、先に帰ったことがあるらしい。
しかも檀がキレながら帰ってきたとき、太宰治は井伏鱒二と呑気に将棋を打っていたという。
カチキレている檀を前に、太宰はこう言ったらしい。
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」。
待たせる方も辛いと。
すごい言い訳である。今度使おうと思う。
でも「待たせる方が辛い」はなんとなくわかる気がする。
待つということは、少なからず相手に愛情がないとできない訳で、こんな人を待たせるような人に注いでくれる愛情なんて、自分の身に余りすぎると感じてしまうことがある。
待つ人たちは、強い。意思が強い。
待たせる人たちは、その意思の強さに負けそうになる。
逆に待つことも、待たれることもない人たちは、拠り所がないんじゃないか。
そう思った時に「万引き家族」で感じた「拠り所」の温かみが分かった気がした。
どんなに歪んでても、拠り所がある。仮初めのルーツが出来上がる。「待つ」「待たれる」関係は美しい。
とはいえ遅刻は良くないので、なんとかしようとは思う。