チェーン・スポーキング

カルチャーずるずるモノローグ

18年5月:10cmのヒールにようやっと認められる

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もっぱらローヒールに頼りがちではあるものの、ちょっとだけ女になりたくなる気分があって、10cmのヒールを引っ張り出し、会社までの道を歩いてみた。

 

履き始めこそ、かかとが当たったり、つま先が妙に痺れたりして血が止まる感覚を受ける。社内ミーティングの時なんて、痺れに耐えきれずちょっと靴を脱いだり、伸ばしたりした。

 

ただ、それが帰路に着く頃には気づいたら何も感じなくなって、

ようやっとヒールに認められたような気分に心地よさを感じた。

 

思えば単純なもので、どれだけ足に傷をつけようとも「その靴に認められた」と思った瞬間に、自分が最高の女性になれたような自信が溢れ出てくる。

痛い思いを代償に、一つの地位を得たような気分になる。だからこそ、無性に履きたくなるし、足を痛めると分かっていても履く靴がある。

そういう靴のことを、敬意を持って「殺意のある靴」と呼んでいる。

 

人から聞いた話ではあるが、イタリアで靴を仕立てるとき、靴屋は自分のサイズに合った靴を提供してくれないという。むしろ美しい型の靴に、自分が合わせるのだと。

靴が自分に合わせるわけではない。自分が靴に歩み寄らなければいけないのだ。

 

だからこそ、「靴に自分が認められた」瞬間はたまらなく嬉しくて、転びそうになりながらも軽く小走りなんかして、地面とつま先が離れていく気持ち良さを噛みしめる時があるのだろう。

 

[music]

 

PREPの初来日ライブに行った。

 

Cheapest Flightを最初に聴いた時、背伸びして聴くものだと感じていた。

そりゃあ、わかりやすい音楽ではある。それでもどこか手の届かない次元にある音楽のような気がしてて、自分にとってこの曲を「自分ごと」化するにはまだ先の話だと思っていた。

 

ただ、手の届きそうなほど近い空間で、声のよく通るライブを目前にし、さらにはメンバーと代官山UNITで会話したうえで、やっとPREPが「自分のもの」として落とし込まれた気分になった。

 

ただ単純に歌が上手く、演奏が素晴らしいバンドではなくて、その場にいることでこちらからステージのあちら側に歩み寄ることができる、そんなショウを日本で、かつ初めての来日という記念すべき瞬間に立ち会えたことは本当に誇りに思う。

 

[music]

 

直近で行ったnils frahmのライブもその傾向があった。正直、音源として楽しむニルスは近寄り難い神聖なサウンドの印象があった。

それで踊れるかと言われたら、踊れる自信は毛頭なく、考えて、考えて、考え抜いてやと歩み寄れたかな、という感覚。

ただ、こちらからライブに足を運んでみて思うのは、敷居の高さに反し、敷居を勇気出して乗り越えるととんでもない快感が待ち受けているということだ。

 

ここまで骨が溶けそうになるライブは久々で、(人がどんどん倒れていく中でも)どんどん近くに寄って、どんどんその危険な火花を浴びてみたい気持ちになった。

 

レコーディングスタジオのような巨大な機材の中を歩き回るニルス、まさに職人が音楽を一つ一つ組み立て、より繊細なプロダクトを築き上げるようだった。

 

[play]

 

茶番主義!の「白い馬の上で踊る」は、一方で「歩み寄り」に任せてしまっているような感覚を受けた。

構成は素晴らしいし、表現は癖があるものの、画期的ではある。ただ、文脈として繋ぎ着れない演出を「あとは自分で解釈できるでしょ?」と投げてしまうことは、表現作品として難易度が高すぎる。

コンテンポラリーの解釈が難しいからこそ、それを雑多に扱うことはできないし、こっちも考えるなら頭をフル回転させて考える覚悟はできている。ただ、その観客の覚悟に委ね過ぎてはいけない。

イタリアの職人だって「人間の足の形」を理解していなければ、血を流しても美しい靴を作れないように。

美しい形を作る術が分かっていることは身にしみて理解したから、次は人の足の形に合わせる技を身につけてほしい。

 

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そこまでを、足に豆を作り、お酒に酔っ払いながら考えた。

きっとしばらくはハイヒールを履きながら、時に足を引きずり、時に絆創膏を貼りつつ、一歩一歩を踏みしめて歩く生活が続くようである。

 

この前奮発して買った竹内まりやの「Plastic Love」12インチを流しつつ、その曲がいずれ自分の味方になってくれることを信じながら、曲に歩み寄って、いずれ歌詞の真意がわかり、流すべき瞬間が来ることを待ち望んでいる、今日このころである。