18年1月:「コンプレックス」をテーマにパンドラの箱を開ける
このテキストは「She is」にあてた公募作品を、改めてブログ用に加筆したものです。追記した部分をあえて赤字にしております。
「普通」という言葉を嫌う自分が一番嫌いだった。
気づいたら髪を刈り上げていた。
元々「普通じゃないこと」への願望が強かった。
幼稚園からピアノを始めていたせいか、自分には音楽の才能があると思い込んでいた。中学の時はインディーズのバンドにはまり、のめり込めばのめり込むほど「普通の生き方」、いわゆるOLや主婦として生きることに抵抗を覚え始める。中学3年の頃に「作曲がしたいから音大に行かせて」と親に頼み込むようになった。
しかし高校1年生の時に習ったピアノの先生が大の苦手なタイプ。結局レッスンにも行かなくなり、音楽の道をいとも簡単に頓挫する。それでも何かしらの形で音楽に関わりたくて、次に考えたのは理系の道だった。志望理由は「シンセサイザーを作りたいから」。こちらは苦しくも物理学の壁に当たる。肌に合わないと判断し、半年ほどで諦めてしまった。
たいしたことない妥協と挫折を重ねた結果、知らない道に迷い込んでいた。そのうちに思い込むようになる。「このままじゃ、何者でもなくなる」と。私の「普通恐怖症」は、気づいたら深刻化してしまっていた。
…という一連の挫折のくだりは、所詮自分のコンプレックスを「普通じゃないコンプレックス」たらしめるための口実である。
本音を話すと、実際のところは「目立ちたい」という欲が大きかった。
小学校・中学校・高校と大して目立たずに、元気なグループの端っこにいるキャラクターだった。結構長い時間一緒にいたのに「いつ来たの?」とか言われることがあったので、相当陰が薄かったと思う。先生にすら驚かれることがあった。
特に小学校で得たダメージは大きく「地味キャラ」「存在に気付かれない系女子」の呪縛がまとわりついていた。
(これが真のコンプレックスだ!)
しかも周りの友達はみんなかわいいし明るいしモテる。特に可愛くもない自分は勉強を頑張るか、誰も知らない情報を吸収して「博識」になるか、人にない才能を身につけるしかなかった。
希望を手にしたのは高校2年の終わりだった。きっかけは長年読み続けてきた音楽雑誌の一般公募欄。気まぐれでディスクレビューを送った半月後、携帯電話に一本の留守電が入る。
「『○○』編集部の△△と申します。先日お送りいただきましたレビューにつきまして、掲載のご相談をしたく連絡いたしました……」。
初めてもらう原稿料と、自分の名前が載った誌面。
「やっと何者かになれる」。清々しい気分だった。
そこからは藁をもすがる思いで編集・ライターの道を進んだ。浪人までして編集の勉強ができる大学へ入学し、在学中には書籍編集のバイトを経験。サークルではフリーペーパーの制作に勤しんだ。
辛いことがたくさんあった。ピアノのレッスンや物理の授業のほうが楽に思えるほどだった。それでも、何者かになれる最後のチャンスだと信じて疑わず、足を止めようとも思わなかった。すべての原動力は陰キャラからの脱出願望だった。
痛みに追われ、走り抜けた感覚はあった。
では、私は何者になったか?
答えは「普通の一般企業に勤める、普通のOL」である。
一応言っておくと、結構仕事は楽しい。
途中から気づき始めていたのだ。好きだったはずのカルチャーを肩書きに利用することの不純さに。走り抜けた結果、「普通」を受け入れていく自分がいた。
「でも、枯れたくない」。最後の抵抗があった。
「普通じゃない見た目の方が覚えられやすいし」。本音である。
私は襟足を刈った。
社会人になる数日前のことである。
美容院へ足を運び、気づけばサロンスタッフへ伝えていた。
「後ろ、刈り上げてもらってもいいですか」。
バリカンの音が響いて、後頭部が軽くなっていった。
なぜそうしたかは覚えていない(嘘である。先述の通り覚えやすい見た目になりたかったからだ)。でも、人と違う髪型になることで「何者かになりたい自分」から自由になったのは覚えている。
この髪型が、私を「普通恐怖症」から解放してくれたのだ。
ただ、キャラ作り云々はさておいて、それでも時々溢れてくる感情がある。
雑誌や本を読み漁り、美術館に足を運び、映画を観つづけた日々の衝動。
キャラ作りはさておき「もっと知りたい」「もっと言葉で伝えたい」という欲望に駆られることがある。(注釈:大事なことなので加筆しました)
今は、素晴らしい何かが琴線に触れた瞬間を模(かたど)って、遺したくてしょうがない。編集から離れた今になって「何かになりたいから」文章を生みだすのではなく、「書きたいから」書きたくなっている。指先から文字が生まれるのがただ愛しい。
この衝動はちゃんと伝えられているだろうか。
どうか、「何者」かになれず苦しんでいる人へ、届いて欲しい。