チェーン・スポーキング

カルチャーずるずるモノローグ

17年12月:ホアン・コルネラ展で「他人」のポップ・グロを体感する

「他人」という熟語には「たにん」以外の読み方があるらしい。

 

実は文学作品内では「ひと」という読まれ方をすることの方が多いらしい。「よそ」や「あだしびと」「たじん」とも読む。

ちなみに意味は一貫して「①自分以外」「②血縁や知己などではなく縁遠い人」のことをいう。

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“他人”のいろいろな読み方と例文|ふりがな文庫

 

ちなみに「びと」と打つと「他人」が出てくる自分のmacは、

「他人」のことをどう考えているのだろうか。

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▲こいつである。女ってなんだよ

 

さておき、「他人」と書くとその読み方が「びと」であろうが「たじん」であろうが、二つのニュアンスが感じられる。

まずは「自分以外」という意味の通り、あくまで自分の皮膚よりも外側にいる、自分と同じ種族の生き物のことをさすニュアンスだ。「あなた」と「わたし」を区別するために、あなたのことを「ほかのひと」と呼ぶ。

 

「傷ついたら申し訳ないんだけど、君は『他人』だよね。だって僕以外の人間だからね。なんかそれ以外に適切な言葉が見当たらないからしょうがないけどさ…」。

 

別に侮蔑語でもないのに、なんとなく人のことを「他人」と言うときは、微妙な申し訳なさを伴うことがある。それは、もう一つの「絶対に関わらないもの」というニュアンスの方が強いからだと思う。

 

「②血縁や知己などではなく縁遠い人」というと、まるで相手との関係性をぶった切るようなイメージがある。前者の「自分以外」は、常識として「あなた」と「わたし」に境界を引いているが、後者②の意味は、どちらかというと引いた線をさらにわざわざ太くしているような感じである。

 

「どうせあなたとはあかの他人じゃない!構わないでよ!」

 

上記は言わずもがな「①自分以外」という意味ではなく「②縁遠い人」だ。めっちゃ太いマーカーで境界をグリッと目立たせている感じである。

ちなみに「あかの他人」の「あか」とは「全くの」という意味らしく、仏教の「閼伽(あか)」「阿伽(あか)」という浄水を語源としているらしい。「水のように冷たい」から「他人にも冷たい」…とのこと。冷たい関係性というと語弊があるが、「関係ない」と「全く関係ない」だとニュアンスが違う、そんなもんである。むやみに使いたくない言葉だ。

 

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WILCOのアルバムジャケットで話題のホアン・コルネラ(Joan Cornella)展を観に、寺田倉庫まで行ってきた。

 

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風刺的な6コマ漫画で、人種やSNS、ドラッグ、殺人の問題をポップに昇華させている。ものすごく軽いタッチで人が血を流していく。

あまりに爽やかである。

 

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刺されてようが死にかけていようが、常時この顔である。

刺す側も刺される側もこの顔である。均一化されすぎててある意味無感情。行為に対し顔が追いついていない感じがする。

 

でも、これがリアルだったらどうだろう。

上記の絵でいうと、仮に優先駐車場に車を止めるために足をぶった切るシーンが無かった場合はどうなるだろう。

 

たとえば白いスーツの男の足が本当に不自由だとする。

警備員は男をサポートせずに、目の前を通る「不自由なフリをした」健常者を優先的にフォローした。「あるわけない」かもしれないが、もしかしたら、そんなことが起きているのかもしれない。

 

てなもんで、ホアン・コルネラの作品で「オーバー」なのは表現の問題だけで、実際のところ似たようなことは、現実世界でも起こりうる。

…というのを、展覧会上ではなく、このブログを書いているなかで思ってしまった。

 

何よりおっかないのは、これをケラケラ笑いながら観ている鑑賞者だった私が、絵の中の彼らを「(②縁とは程遠い)他人」として捉えていたことである。

 

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ちょっと前に、新宿で焼身自殺があった。

あの時「おお、まじか…」と衝撃を受けながらも内心すごく興奮はしていて、SNSに動画や写真が上がっていないか、血眼で探していた。

その時写真や動画を撮った人たちも、はたまた野次馬根性で情報を探しまくった私も、もしかしたらこの顔をしていたかもしれない。

 

展覧会でのホアン・コルネラの紹介に、彼のメッセージがあった。

 

「誰だって他人の虚しさを見て笑うものさ。そもそも笑いとは物や他者から派生するんだ。同情心の有無にかかわらず、人間は一定の残酷さを持ち合わせている」。

 

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ブラックユーモア炸裂の世界観ではある。ただ、自分がいつ何時誰かの「他人」になるとは限らない。もっと言えば、ホアンの世界に住む「加害者側」にも「被害者側」にもなりうる。

 

別に「だから人権とか政治問題もジブンゴト化しましょうね!」とも「明日は我が身と思いましょうね!」とも一切言いたくはない。

ただ、自分もこんな顔をしてる時があるんだろうなと思うと、流血とは別の気持ち悪さがあるもんだ。鏡を見て注意せねば、いずれ「他人」に笑われるぞ。