17年11月:「ブレードランナー2049」を観て「近未来」に敏感になる
いつだって「近未来」はただのフィクションだ。
一向に現実世界には降り立ってくれない。
「車もしばらく 空を走る予定もなさそう」てな具合に歌っていた歌手もいたもんだが、そこから20数年経ち、未だに「空上自家用車の衝突事故」的なニュースもない。
2020年へのカウントダウンが始まっているものの、自分の空想していた未来には現実が程遠い。
『2001年宇宙の旅』(1968年) スタンリー・キューブリック監督作品
それこそ初めての「近未来体験」は、風邪を引いて学校を休んでいた時に観た「2001年宇宙の旅」だった。
ストーリーもちんぷんかんぷんで、「なんでサルの投げた骨が人工衛星に変わるんだろう」なんて、半分意識を飛ばした頭のなかでずっと考えていた。
ただ、唯一はっきり覚えているシーンがある。半球体の廊下を女性が歩く、なんともないカットである。ドアの前に立ち止まると、女性はふいっと壁の上をてくてく歩き始める。BGMの「美しき青きドナウ」とのギャップに衝撃を受け、そのシーンだけが鮮明だった。なんて優雅な未来なんだ!と。
「これが未来なのか、そうかぁ」。当時はそう思っていた。
「どや、これが未来なんや」。キューブリックも当時はそう言っていた。
そんな気がしていた。
ただ、リアタイの「近未来」から16年経ったので、いよいよ壁を歩くことにチャレンジしてみたものの、どうやらまだ難しいようである。そりゃ車も空走ってないんだもの。まだ重力には当分従わなければいけないようだ。
さて、「ブレードランナー2049」を観に行った。
荒廃した世界と、人々が生活する近代都市。
面倒な作業は全部従順なレプリカント(人造人間)が代行することで秩序が保たれた世界である。車も空を走るし、何より広告が話しかけてくる。
あと、ガールフレンドがホログラム。めちゃくちゃ可愛い。
「これが未来なのか、そうか。2049年ってやばいな」。
…とは思わなかったものの、ざっと20数年で近いところまではいくんじゃないかとは思っている。
ハードをつければVRの世界を楽しめるようになったし、広告はセグメントを切ったりすることで、個々人へのレコメンド精度を徐々に上げている。セグウェイが登場したときは「やっと可視化された近未来がきたな」と思った。何よりだいたいの「未来」はスマートフォンに集約されている。
よく考えたら「近未来」が身近にいろいろと生まれているじゃないか。
思ったよりチマチマしているなあ、とは思うけど、気づいたら「近未来」は日常に浸透している。
ていうか、本当の「進歩」は個人の半径30cm以内の「目に見えないところ」に集約されていて、外的(デザイン)な変化は大してもたらさないんだと最近は思い始めてきた。フィクションでみる「近未来」のように、分かりやすく、それこそロボットレストランみたいな形では登場してくれない。生活の内部で「近未来」は「現実」へと溶け込んでいる。だからこそ「近未来」の実感が薄れているんじゃなかろうか。
近未来は一向に近づいてこないもんだと思っていたが、
近未来が現実へ、だんだん近づいていく。
手塚治虫の世界にしか存在しなかった「エスカレーター」に誰も驚かなくなった2017年である。日常に近未来が侵食されていく。
今そのうち電柱がノスタルジーに分類されていく日がくるんだ。