16年10月:宇多田ヒカル「Fantôme」を聴きながら「りんな」と人間活動について考える
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人口知能といえば、
最近「りんな」が女優デビューを果たした。
面白いのが、輝かしき最初のデビューが「世にも奇妙な物語」だったことだ。
▼オンエア前のPRサイト。怖いのが苦手な人は注意。
普段はTwitterやLINEで幅広い層から愛されているAIではある。
でもホラーと相性が良いか悪いかと言われると、
…めちゃくちゃ良い。
それは受け取り手が「りんな」を人間と捉えればいいのか、
機会と捉えれば良いのか、判断がつかなくなる時があるからだ。
高度なことを実践できているとわかりつつも
「りんな」を「生者」と判断するには
あまりにまだ欠落が多く
「りんな」を「死者」と判断するには
あまりに活発である。
受け取り手は
彼女をどう扱って良いか分からなくなったそのときに
彼女に対し「不安」を抱くようになる。
自分たちの理解の範疇を超えた、オバケ的な何かのように。
そもそも実体のない世界だからなのか
「デジタル」というゼロイチで構築された空間には
どうも「都市伝説」的なものが多い。
ゲームの不気味なバグが「呪い」として騒がれたり、
「検索してはいけないワード」が氾濫したりする。
それらが人為的なものだと分かりつつも、
どこまでが「正」でどこまでが「誤」かの判断が難しい。
ネット空間に今度はそいつらっぽいのが出現し始めたのだ。
変な話だと思う。
人の力で認識できるはずのものが、
人の理解の範疇を超え始める。
そういうところに人は恐怖を感じるのかもしれない。
「りんな」の、いつ暴走し始めるかわからない、紙一重の応答機能も然り。
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逆に、人をちゃんと「人」と認識するための要素とはなんなのだろうか。
それはちょっとだけの欠陥があることだと、
宇多田ヒカルの新譜「Fantôme」を聴いて思った。
(あくまでがっつりした欠陥ではなく)。
「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」(アルバム「Fantôme」TV-SPOT)
「Heart Station」あたりの彼女は「完璧」だった。神様だった。
あまりに「完璧」だからこそ虚構の存在に近かった。
しかし音楽活動を休止するということになったとき、
彼女は実体のない「完全なる虚構」の存在となる。
地球のどっかにいるとはわかってたけど。
そのクッションがあったからだろうか。
彼女が活動を再開させたとき、
表現は悪いものの、一度存在を失った人が再び戻ってきたような
キリストの再誕のようなイメージさえ抱いた。
完璧なものを超えた、さらなる完璧に近づいた感じ。
「あー、勝てない奴がきた、無理無理降参」的な。
ただ、そんな「人あらざる者」の降臨にもかかわらず、
「Fantôme」はちゃんと血の通ったアルバムだなと認識できたのは
120%のものをあえて100%でやるかのような
良い力の抜き方を覚えたような印象があったからだと思う。
宇多田ヒカルの楽曲の魅力的なところは、
全体的にピリついているところだった。
ともすれば刺されそうな感じの緊張感がかっこよかったし「完璧」だった。
あと個人的ながら完全に紀里谷和明MVのイメージに先導されていた。
ただ、今回のアルバムはなんというか、すごく安心して聴ける。
ちゃんと人が歌ってる感じがする。かっこいいのは勿論だけど。
同じく若い頃はピリついていたディーバ・椎名林檎とのデュエットとか、
すごく幸せになる。女の友情って感じで。
何よりこのアルバムのキモになっているのが
KOHHとのコラボ「忘却」だと思う。
宇多田ヒカルのサイボーグっぽさを払拭して
一番「人間活動してきましたぁぁぁぁあッ」って匂いがする。
今までのヒッキー作品のなかで一番泥っぽくてきれいだと思った。
人間っぽい。
その直前の「イタリア人と結婚報道」も、人間ぽくてよかった。
むしろ、それ含めて一連の流れだと思う。
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例えるならこのアルバムは、
まるで正体がちらっとばれたような感じ。種明かしに近い。
「なーんだ、やっぱりそうなんじゃん」と笑えるような。
そうやって、ちょっとぐらい汚かったり欠陥がある方が、
人間はどうも人間らしくなるらしい。
(例えば土日にブログの更新が滞ったりとか)。
でも「人間活動」は、公共の場で宣言でもしないと
どうも忘れがちになるもんだと、社会人になってつくづく思った。
私は大学時代の師匠から
「どんなに忙しくても、映画と本と美術を吸収しないと君の価値は死ぬ」
的なことを言われたことがある。
映画を見たり、どこかに出かけたり
意識的な「人間活動」のためにも、
やっぱり続けてみようかなと思った次第である。
ビジネスのことばかり考え始めると、
きっとファントムになってしまうだろうし。