16年6月:人工知能と「むじんくん」のCMについて考える
[CHAIN]
日本の片隅で「あ〜くっそエロくなりてえなあ〜オイ」と 無様に叫び続けていたちょうどその頃(※前回参照)、
秋葉原で「アダルトVRフェスタ」があった。
情報を見つけたのが開催日当日ということもあり
会場へは訪れることができなかった。
(でももっと早く知っていたら行ってた、一人で)。
ヒトの話によると予想以上に人が殺到したらしく、
会場へは一部の先頭集団しか入ることができなかったらしい。
エロ(もといエンタメ)が絡むと技術は急発達する。
分かりやすくて需要があるからだ。
難しいものを分かりやすいものへ落とし込むことで、
大勢のパンピーから「もっと純度の高いもの」が求められるようになる。
しかし、それが理解の範疇を超えてしまうと、
大衆は口をつぐみだし「時代が追いつかなかった」モノとして片付けようとする。
促進するのも制御するのも大衆の力である。
どないせえっちゅうねん、と呟きたくなる位、大衆は理不尽である。
要は「新しすぎるとドン引かれる」のだ。
[Movie]
人型ロボットの世界もその構造で発達している。
ASHIMOからpepperに至るまで、
それらは人々の頭の中で考える「ロボット」像の範囲内で進化しながら、
しかし、技術の進歩がこのまま進み、
特定の未来像に限りなく近い「未来」が訪れたら
技術に対し拒絶を示す人も少なからず存在するはずだ。
まさに映画「A.I.」の世界である。
先月公開された「エクス・マキナ」は、
現在の技術をもう少し進歩させれば手の届く範囲の「未来」の話を
「ワクワク」ではなく「ゾッとする」方の視点で表現している。
「想定の範囲内」なシナリオではある。既視感もあった。
しかし改めて「AI(人工知能)」で起こりうるホラーは
当然ながら10数年前の映画よりずっとシビアに、冷酷に表現されていた。
[Art]
「エクス・マキナ」作中に、人工知能のエヴァが絵を描くシーンがあった。
だが、監督の意図があるのか知らずか、
いかにも計算されたような絵だった(主人公が教えれば教えるほどエヴァが緻密な絵を描くあたり、まさにプログラミングの作業を彷彿とさせた)。
実際に、人工知能に絵を描かせることは既に可能ではあるし、
なんなら最近は小説も書かせることが可能らしい。
しかし見たままを描く「写実」や「パターンニング」のレベルから先へ進まない限り、
まだ芸術の分野は人間の特権たりうるようだ。
芸術とは、自身の意思や感情の制御を超えた世界に存在すると考えている。
一定のテーマや法則は繰り返し用いられているが、
そこから新しい発想を生み出そうともがく行為に、芸術の偉大性がある。
だから、もがいた末に特定の枠内から飛び出してきた結果として
音楽や演劇のアドリブは面白いのだと、
六本木クロッシング2016展に展示されていた山城大督の「トーキング・ライツ」を見て思った。
「六本木クロッシング2016展」紹介映像:山城大督Version
古い家具の動きに合わせ、録音されたセリフが流れる。
人間を介入させずに「演劇」を成立させようとする試みだ。
「感情の存在しないモノ」に感情移入ができるのかを問題提起している。
テーマパークのアトラクションのようなもので、
そこにアドリブは存在しないし、ハプニングも訪れない。
それでもこの作品を例外的にちょっと面白いと思えたのは、
ヒトの形には見えないモノへのアテレコによって感動を生み出そうとしていたこと、
子供の声の不完全さに人間臭さがあったからだと思う。
「不完全さ」ほど人間の身体を感じさせる要素は無いのだと感じた。
「六本木クロッシング2016展」紹介映像:西原 尚Version
一方で、人間が音楽を聴いた時の感情を表現した西原尚「ブリンブリン」も興味深かった。
黒い重りはいろんなところに引っかかりながらコンベアで運ばれ、
鑑賞者の予想をちょっと過ぎた辺りでストンと落ちる。
良い音楽を聴いたときの感動を、重りが散々焦らされた末に落ちた瞬間のカタルシスで表現している。
感動が懐へ落ちる装置は作れるし受容もできるが、
感動のタイミングまではさすがにコントロールできないらしい。
だからこそ、想定外に訪れた感動は大きいのだ。
[Music]
The Avalanchesの新譜「Wildflower」では、それこそ「鑑賞者のコントロールの範疇を超える」面白さを感じた。
エモーショナルなディスコサウンドをベースに、子供とかおっさんの声のサンプリングとかをすごくファニーな感じでちりばめているかと思えば
サウンドオブミュージックを突然ぶっこむ感じの暴れ方である。
めちゃくちゃ笑った。面白い。
AIに任せれば、ウン万曲のストックからランダムに旋律をピックアップして
新しいトラックを作ることも可能だとは思うが、
その組み合わせの面白さと、過去の曲をいかに愛着を持ってマッシュアップできるかは、個々の人間が為せる技だと思う。
あとはSuchmosのEP「MINT CONDITION」も気に入った。
「Essence」の時は「またなんか渋谷アーバンでオシャンティな感じのが出てきちゃったけどどうしようか(好きだけど)」と思っていた。
しかしシティポップがいよいよ飽和状態で「そろそろ人工知能に任せられるのでは」と思い始めていた頃に、
歪みを効かせたロックギターを取り入れスパイスを加えてくれたのは嬉しかった。
紋切り型から脱却しようとする「遊び」があるからこそ、 まだまだ人間の音楽を聴いていたいなと思ってしまう。 ファックザ量産型、なスタンスでいたい。
[CHAIN]
ただ、人間は理不尽である。
確かに未来とは「たどり着いたら無機質でなんか不気味なもの」だが、
そう考え、拒絶しつつも、やっぱり求めずにはいられない。
「未来」の需要は、ファッションで如実に顕れる。
90年代、ノストラダムスの大予言が世間を賑わせた頃、
日本でサイバー・ファッションが流行したことがあったらしい。
(引用元:ネオンカラーのファッションが日本の街を彩る | nippon.com)
ネオンカラーに厚底でミニスカ。
今見返すと、なんとも「近未来」のスタイルっぽいなと思ってしまう。
手塚治虫の描くサイボーグ女子がいかにも着てそうなのだ。
ビョークが雑誌「CUT」の表紙で履いてポンプフューリーが大流行したのも、
1995年5月である。「ハイテクスニーカー」と呼ばれ、エアーマックスなどと共にブレイクしたそうだ。これもまた、機械っぽいデザインである。
人々は来るはずのない(かもしれない)未来を
「コスチューム」という形で先取りしようとしていたのだろう。
また、その頃に「未来」がファッションとして頻繁に捉えられていたのは、
当時のCMからも見てとれる。
メタリックでタイトな服で、髪型もナチュラルからほど遠い感じ、
それが全時代共通の典型的な「未来」だ。
[Magazine]
そういった90年代の「未来」的変身願望をぼんやり思い出したのは、
今月の「GINZA」がきっかけである。
(GINZA 16年8月号より)
(GINZA 16年8月号より)
「 When she wants to change」シリーズが気になった。
80〜90年代サイバーファッションのリバイバル兆候は
去年〜一昨年辺りからあったものの、
今年はそれがよりダイレクトにきている気がする。
去年よりもメタリックなものや、タイトな宇宙服っぽいスタイルが流行りそうだ。
ノストラダムス大予言の時代同様、ぼんやりと未来が見えなくなってきたからか、
「いかにも未来っぽい未来」を人々が求めるようになった。
しかし、暗雲が立ち込み具合は90年代と比べ物にならないと思う。
だからこそ、せめてカルチャーの中だけでも“明るい未来に就職希望”していたい。
ウォウウォウ×2。