2017年12月:どのエッセイの内容かが思い出せない
筆者と筆者の叔父の、過去のやりとりである。
幼少期(たしか中学生頃?)の筆者が、食堂で何か(天丼?なんか醤油が必要なもの?)を頼む。
それを聞いていた叔父が、
「お前が今それを言ったということを、俺はずっと覚えているだろう」と筆者に向かって予言のように言う。
そう言われたから、筆者はずっと呪いのようにその言葉を覚えている。
これが、どの本のなんの話なのかが思い出せない。
思い出せないというか、勝手に作っている気もする。
心当たりがあるとすれば、最近読んでいる吉行淳之介の「やややの話」の中かもしれない。あるいは、何か別のエッセイな気もする。
ただ、自分が最近読んだ本のなかに「食堂」で「天丼」を食べるような作家がいないもんだから、頭を抱えている。
どなたか、わかりましたらご教示くださいませ。
17年12月:ホアン・コルネラ展で「他人」のポップ・グロを体感する
「他人」という熟語には「たにん」以外の読み方があるらしい。
実は文学作品内では「ひと」という読まれ方をすることの方が多いらしい。「よそ」や「あだしびと」「たじん」とも読む。
ちなみに意味は一貫して「①自分以外」「②血縁や知己などではなく縁遠い人」のことをいう。
ちなみに「びと」と打つと「他人」が出てくる自分のmacは、
「他人」のことをどう考えているのだろうか。
▲こいつである。女ってなんだよ
さておき、「他人」と書くとその読み方が「びと」であろうが「たじん」であろうが、二つのニュアンスが感じられる。
まずは「自分以外」という意味の通り、あくまで自分の皮膚よりも外側にいる、自分と同じ種族の生き物のことをさすニュアンスだ。「あなた」と「わたし」を区別するために、あなたのことを「ほかのひと」と呼ぶ。
「傷ついたら申し訳ないんだけど、君は『他人』だよね。だって僕以外の人間だからね。なんかそれ以外に適切な言葉が見当たらないからしょうがないけどさ…」。
別に侮蔑語でもないのに、なんとなく人のことを「他人」と言うときは、微妙な申し訳なさを伴うことがある。それは、もう一つの「絶対に関わらないもの」というニュアンスの方が強いからだと思う。
「②血縁や知己などではなく縁遠い人」というと、まるで相手との関係性をぶった切るようなイメージがある。前者の「自分以外」は、常識として「あなた」と「わたし」に境界を引いているが、後者②の意味は、どちらかというと引いた線をさらにわざわざ太くしているような感じである。
「どうせあなたとはあかの他人じゃない!構わないでよ!」
上記は言わずもがな「①自分以外」という意味ではなく「②縁遠い人」だ。めっちゃ太いマーカーで境界をグリッと目立たせている感じである。
ちなみに「あかの他人」の「あか」とは「全くの」という意味らしく、仏教の「閼伽(あか)」「阿伽(あか)」という浄水を語源としているらしい。「水のように冷たい」から「他人にも冷たい」…とのこと。冷たい関係性というと語弊があるが、「関係ない」と「全く関係ない」だとニュアンスが違う、そんなもんである。むやみに使いたくない言葉だ。
WILCOのアルバムジャケットで話題のホアン・コルネラ(Joan Cornella)展を観に、寺田倉庫まで行ってきた。
風刺的な6コマ漫画で、人種やSNS、ドラッグ、殺人の問題をポップに昇華させている。ものすごく軽いタッチで人が血を流していく。
あまりに爽やかである。
刺されてようが死にかけていようが、常時この顔である。
刺す側も刺される側もこの顔である。均一化されすぎててある意味無感情。行為に対し顔が追いついていない感じがする。
でも、これがリアルだったらどうだろう。
上記の絵でいうと、仮に優先駐車場に車を止めるために足をぶった切るシーンが無かった場合はどうなるだろう。
たとえば白いスーツの男の足が本当に不自由だとする。
警備員は男をサポートせずに、目の前を通る「不自由なフリをした」健常者を優先的にフォローした。「あるわけない」かもしれないが、もしかしたら、そんなことが起きているのかもしれない。
てなもんで、ホアン・コルネラの作品で「オーバー」なのは表現の問題だけで、実際のところ似たようなことは、現実世界でも起こりうる。
…というのを、展覧会上ではなく、このブログを書いているなかで思ってしまった。
何よりおっかないのは、これをケラケラ笑いながら観ている鑑賞者だった私が、絵の中の彼らを「(②縁とは程遠い)他人」として捉えていたことである。
ちょっと前に、新宿で焼身自殺があった。
あの時「おお、まじか…」と衝撃を受けながらも内心すごく興奮はしていて、SNSに動画や写真が上がっていないか、血眼で探していた。
その時写真や動画を撮った人たちも、はたまた野次馬根性で情報を探しまくった私も、もしかしたらこの顔をしていたかもしれない。
展覧会でのホアン・コルネラの紹介に、彼のメッセージがあった。
「誰だって他人の虚しさを見て笑うものさ。そもそも笑いとは物や他者から派生するんだ。同情心の有無にかかわらず、人間は一定の残酷さを持ち合わせている」。
ブラックユーモア炸裂の世界観ではある。ただ、自分がいつ何時誰かの「他人」になるとは限らない。もっと言えば、ホアンの世界に住む「加害者側」にも「被害者側」にもなりうる。
別に「だから人権とか政治問題もジブンゴト化しましょうね!」とも「明日は我が身と思いましょうね!」とも一切言いたくはない。
ただ、自分もこんな顔をしてる時があるんだろうなと思うと、流血とは別の気持ち悪さがあるもんだ。鏡を見て注意せねば、いずれ「他人」に笑われるぞ。
17年11月:ウィッグが欲しい
社会人になってから、頭の後ろを刈り上げるようになった。
男性性になりたいわけではない。
むしろ女として見られたい。
だから刈ってやった。
最近はバリカンも6ミリだ。
あえて後ろを刈り上げることによって、男性性にも女性性にもなれるような、可能性が広がった。
性別を与える前のアバターアイコンみたいなもので、どちらにでもなれる。
合コンの某テクではないが、手首、足首、首を見せた時の自信が生まれる。
もはや三首がアクセサリーになる、魔法の髪型である。
菅原小春というダンサーがいる。
角度を変えれば男性に見え、角度をまた変えると女性に見える、不思議なひとだ。ただ、身体のどこかで女性らしさを残す工夫をするらしく、特に首元に意識を集めるらしい。
菅原小春が髪を最初に刈ったきっかけだった気がする。
とてもセクシーだ。ダイナミックな動きをする時の彼女が好きだ。個性美だ。
どうしてもなってみたかった。限界だった。だから、入社前日にやってやった。
バババババっと気づいたらやっていた。刈っていた。
鏡を見て思う。
自分の首元には自信がある。
というより、身体の凹凸がない以上、そのあたりでしかエロさをアピールできない。もはや刈り上げは麻薬のようなものだ。エロくなりたい→刈りたい→エロくなりたいのネガティブスパイラルである。
いっそウィッグが欲しい。
自分が髪を伸ばすことで、女性性がどこまで振り切れるのかを見たい。
切り続けないといけないとわかりながら、伸ばしたい。でも伸ばさない。
伸ばす気は今のところない。
自分がウィッグになったら、メンズライクなジーパンも履ける。今それをしたらただの男になるのに。
とはいえ相場が8000円くらいなので、ドンキに手を出そうか、貯金を睨みながら考えている。
17年11月:「ブレードランナー2049」を観て「近未来」に敏感になる
いつだって「近未来」はただのフィクションだ。
一向に現実世界には降り立ってくれない。
「車もしばらく 空を走る予定もなさそう」てな具合に歌っていた歌手もいたもんだが、そこから20数年経ち、未だに「空上自家用車の衝突事故」的なニュースもない。
2020年へのカウントダウンが始まっているものの、自分の空想していた未来には現実が程遠い。
『2001年宇宙の旅』(1968年) スタンリー・キューブリック監督作品
それこそ初めての「近未来体験」は、風邪を引いて学校を休んでいた時に観た「2001年宇宙の旅」だった。
ストーリーもちんぷんかんぷんで、「なんでサルの投げた骨が人工衛星に変わるんだろう」なんて、半分意識を飛ばした頭のなかでずっと考えていた。
ただ、唯一はっきり覚えているシーンがある。半球体の廊下を女性が歩く、なんともないカットである。ドアの前に立ち止まると、女性はふいっと壁の上をてくてく歩き始める。BGMの「美しき青きドナウ」とのギャップに衝撃を受け、そのシーンだけが鮮明だった。なんて優雅な未来なんだ!と。
「これが未来なのか、そうかぁ」。当時はそう思っていた。
「どや、これが未来なんや」。キューブリックも当時はそう言っていた。
そんな気がしていた。
ただ、リアタイの「近未来」から16年経ったので、いよいよ壁を歩くことにチャレンジしてみたものの、どうやらまだ難しいようである。そりゃ車も空走ってないんだもの。まだ重力には当分従わなければいけないようだ。
さて、「ブレードランナー2049」を観に行った。
荒廃した世界と、人々が生活する近代都市。
面倒な作業は全部従順なレプリカント(人造人間)が代行することで秩序が保たれた世界である。車も空を走るし、何より広告が話しかけてくる。
あと、ガールフレンドがホログラム。めちゃくちゃ可愛い。
「これが未来なのか、そうか。2049年ってやばいな」。
…とは思わなかったものの、ざっと20数年で近いところまではいくんじゃないかとは思っている。
ハードをつければVRの世界を楽しめるようになったし、広告はセグメントを切ったりすることで、個々人へのレコメンド精度を徐々に上げている。セグウェイが登場したときは「やっと可視化された近未来がきたな」と思った。何よりだいたいの「未来」はスマートフォンに集約されている。
よく考えたら「近未来」が身近にいろいろと生まれているじゃないか。
思ったよりチマチマしているなあ、とは思うけど、気づいたら「近未来」は日常に浸透している。
ていうか、本当の「進歩」は個人の半径30cm以内の「目に見えないところ」に集約されていて、外的(デザイン)な変化は大してもたらさないんだと最近は思い始めてきた。フィクションでみる「近未来」のように、分かりやすく、それこそロボットレストランみたいな形では登場してくれない。生活の内部で「近未来」は「現実」へと溶け込んでいる。だからこそ「近未来」の実感が薄れているんじゃなかろうか。
近未来は一向に近づいてこないもんだと思っていたが、
近未来が現実へ、だんだん近づいていく。
手塚治虫の世界にしか存在しなかった「エスカレーター」に誰も驚かなくなった2017年である。日常に近未来が侵食されていく。
今そのうち電柱がノスタルジーに分類されていく日がくるんだ。
17年8月:注目しているものを洗いざらいピックアップする
[musics]
OKAMOTO'S「NO MORE MUSIC」
なんか、めちゃくちゃかっこよくなっているらしい。
自分のなかで、正直OKAMOTO'Sはそこまでかっこよくないイメージだったのに。
ちょっと試聴したところ、どうやらめちゃくちゃかっこいいようだ。
Arcade Fire「Everything Now」
ダフトパンクのトーマがプロデューサーとして参加しているらしい。
Pan Daijing「Lack」
ベルリンのレーベル「PAN」からリリースされた。
最初だけちょこっと聴いて、すごくよかったのでフルで聴きたい。
Mount Kimbie「LOVE What Survives」
James Brakeが参加しているらしい。ひえええ。
[Books]
燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」
彼氏に勧められた。Twitterが面白いらしい。
Twitterで面白い人の書籍というものにあまり気乗りがしないが、読む。
武田砂鉄「コンプレックス文化論」
コンプレックスでカルチャーが出来上がってくっていうと、
どうしても、下北沢や高円寺のイメージになる。
もっというと、銀杏BOYSにいきつくのだが、
そこから先の話をどうするんだろう。
ただでさえ、今コンプレックス系が追いやられている気配があるのに。
戌井照人「ゼンマイ」
鉄割アルバトロスロケットの戌井先生の最新作。楽しみ。
それはそうと演劇が観たい。
[Movies]
「エル ELLE」
主演のイザベル・ユペールがすごくかっこいい。
好きなタイプのホラーサスペンスの匂いがする。
[Arts]
エマニュエル・ソーニエ展@銀座メゾンエルメス
エマニュエル先生、ごめん。
一部分だけ、ライアン・ガンダーの作品と混同してました。
ただ、あなたがすごくタイプのアーティストであることは確かなんです。
エクスパンデッド・シネマ再考@東京都写真美術館
映像メディアの歴史について。
飯村隆彦の「リリパット王国舞踏会」が超気になる。
17年8月:韓国のカルチャーシーンから目が離せなくて困る
アジアのカルチャーが気になって、夜も眠れない。
「EYESCREAM」の韓国カルチャー特集がめちゃくちゃ面白すぎて、
名前の上がるアーティストをちょっとずつ制覇している。
年末年始あたりからチラチラチェックしているバンド「hyukoh」をはじめ、
韓国アーティストがどうも隅におけない。
日本における「never young beach」「yogee new waves」や「suchmos」が席捲するシーンの、パラレルワールドを見ているようでならない。
良い意味でも悪い意味でも、アジアでカルチャーシーンが均一化している。
ただ「こういうの!こういうのを待ってた!」という、
絶妙にツボを押してくるアーティストはいる。
Silika Gelはそのなかでも特に良い!と感じたバンドだ。
[Official] 실리카겔 (Silica Gel) - 두개의 달 (Two Moons)
見た目はすごくいけてないし、色モノなバンドだと思っていた。
「Two Moons」という控えめに言って「激ダサ」なPVが導入だったせいもあるかもしれない。
ただ、このロックとシンセを融合させ、決めるところは決めつつ、随所で足を浮かせてくる感覚は、日本の音楽シーンでまだ遭遇したことがない。
備忘録17年5月:草間彌生はベートーヴェンの「運命」だった。
少し遡ることになる。
年始に、山田正亮の展覧会「endless 山田正亮の絵画」を観に行った。
ポールスミスみたいなストライプを無限に生み出す人、としか思っていなかった。
展示に行く前までは「なんだこの退屈な作家は」とまで感じていた。
ただ、実際年代ごとに観てみると、これがまた思った以上に面白い。
静かに、幾重にもなる色のレイヤーにより、緊張感のある均衡感が保たれていて、目がチカチカするのにものすごく安心する。
その安心感の根底にあるのは、彼の絵画のルーツにあるのかもしれない。
初期のありきたりな果物とワインボトルの写生を起点に、彼の作品は期を追うごとにフォルムが崩れていく。最初はボトルの線が荒くなり、渦を巻き始め、更にはボトルが分裂を始める。
最後には色の要素だけが、画面にべたりと横たわっている。まるで夕立ちのあとのように、何もかもが静まりかえるのだ。
まるで、静物のままだった頃の姿の方が騒々しかったかのように。
彼はこのスタイルに移ったのち、何百作もの「ストライプ」を残す。
色の組み合わせ・バリエーションは様々ではあるものの、実は彼は一貫して最初の「ボトルと果物」だけを描き続けていたように思える。彼が描き続けていたものは、最初から最後まで、りんごとボトルだったのかもしれない。
広い一室の壁に敷き詰められた抽象画の大群を前にし、色と線への執着にめまいがした展示だった。
そういえば、草間彌生もある本の編集に関わる前までは、
なんだか商業的な匂いがして苦手な作家だった。
ファッションブランドとのコラボや、アートナイトでの取り組み、24時間テレビ云々で、そういうイメージがついていた。なんだか経済に利用されている作家のような気がしてならなかった。
ただ、あるアートブックの編集をきっかけとして、彼女がめちゃくちゃ苦しみながら作品と対峙していることを知り、自分のなかで180度見方が変わることになる。
そして、今回の展示である。
彼女がいつも「強迫観念(オブセッション)」と戦いながら生きていることを、改めて実感した展示だった。
彼女の描く触手は、幼少期から悩まされている幻覚であり、また性や死を象徴するものだと言われている。彼女は奴らに悩まされながらも、正面から対峙し、ありとあらゆる可視化の手段を使いながら、なんとかして奴らの存在を形にしてきた。
時には恐怖を映像で表現し、時には死への誘惑を舟の形に託し、襲いかかる触手と戦いながら、奴らのバケの皮をはがそうとしてきたのだ。
最初から現在まで、彼女の描く「触手」は姿形が変わらない。だが、モノクロの時代に始まり、2010年以降はカラフルに、一層幸せな色使いへと変化していくのだ。
繰り返しの行為のなかで、本質を掴もうとする姿勢は、山田正亮の抽象画と共通しているように思う。
私の中では彼らの見える世界が「非日常」であるが、彼らが目にしているのは、彼ら自身にとっての「日常」にすぎない。
過酷な状況下で生活していれば、じきに身体が順応していくように
彼らは「日常」に伴う不安や恐怖を見つめ続けることで、より対象の核となる要素に近づこうとしている。
そして、だからこそ彼・彼女の作品の変遷は、ベートーヴェンの「運命」に酷似している。
テーマのフレーズは形を変え、私たちを苦しませるが、4楽章のフィナーレに近づくにつれ、より華やかに、浄化されていく。
繰り返すテーマに何度もぶつかり、苦しめば苦しむほど、カタルシスは大きいのだ。
終わりなき日常なんていうぼやけた仮想敵にどうぶつかっていこうか、
どう快感を得ようか、展示が終わってからここ最近、考えていることである。